魏書 荀彧伝 14(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪
こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。
この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい
そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。
三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう
魏書 荀彧荀攸賈詡列伝 続き
「彧疾留寿春(彧疾みて寿春に留まる)」
疾には急な病気、病気、早い、という意味がある。
なんで「病」じゃないんだろう?
孫権の征伐が行われた。曹操は軍の慰問のため荀彧を借りたい、譙にきて欲しいと上奏した。
荀彧はとどまり侍中・光禄大夫(こうろくだいふ)(近衛大臣)としての節(旗、旅中いう事聞かない奴は斬ってよしの権限)を持ち、曹操の軍事に参画した。
曹操の軍隊は濡須(じゅしゅ)についた頃、荀彧は急な病気になり寿春に残った。
先のことを憂いもって薨じた。
享年五十歳。敬公と諡(おくりな)された。
明くる年、曹操は魏公となった。
みいく謂えらく、許都から戦地の濡須に向かうのに、譙を経由する意味?
譙に何があるんだろう。沛国譙郡…今回の配備で何が関係するんだろう、曹操の故郷である事以外に。
尚書令の荀彧がいつの間に光禄大夫になったんだ?曹操のところに行くので、献帝も自分の味方でいて欲しいから光禄大夫にして、旅中いう事聞かない奴いたら朕の名前だしていいから!斬っていいからね!の非常時のみのスペシャル権限(節)まで持たせて行かせたのか…どっちからも愛されまくりじゃないか!
というかこの三角関係が終始荀彧を苦しめる足枷だった気もするんだけど。
許都を出発した時は荀彧は元気だったと思う。旅の途中で急な病気にかかったと思われる。
原文は「彧疾留寿春(彧疾みて寿春に留まる)」疾には急な病気、病気、早い、という意味がある。疾風とか。
なんで「病」じゃないんだろう?と思うに病と疾は意味が少し違うらしい。成り立ちでいうと
「病」は文字通りガチの病気、起き上がれない、寝たきり状態
「疾」は軽い病気
らしい。軽い病気なのになんで死んじゃうの!!(涙)
ちょうどこの記事を書いている2020年8月、コロナウイルスの大流行で世界中で2000万人の人がかかり、80万人が亡くなっている…。2019年の年末くらいから流行りだし、世界の大都市は封鎖され(ロックダウン)、飛沫感染を防ぐため外出はしないように、仕事の仕方や経済の形まで大きく変えてしまった。
ワクチンはないし、そもそも正体もよくわからない新種の風邪…
三国志演義の一番はじめの頃、黄巾の乱の頃も疫病が流行ってたけど、これが現代で言うところの「第2波」って奴じゃないのか。日本では一旦収束しかけたに見えたコロナウイルスの患者がまた増え始めてる。
黄巾の乱の起きた場所って潁川(許都)、陳留、荊州、青州などざっくり北の方。じきに疫病の話は出てこなくなる。(しばらくして赤壁の頃またわけわからん疫病が流行ったな)当時の都・洛陽からも近いし医療が整っていたほうなんじゃないかと。洛陽方面から離れるにつれ、十分な医療が受けられずに放置されてる可能性はあるし、亜種が生まれた可能性もある。
荀彧も潁川に帰り先祖代々のお墓(廟)に祀られるはず。なのになぜ寿春に埋葬されているんだろう?黄巾の乱の頃も疫病が流行ってたけど??
そこに知らずに踏み込んでしまった。留守番専門の荀彧が珍しくロングロングジャーニー。
きっと疲れもたまってきたり、旅中なのでご飯が冷めていて食べなかったり、大好きなお香は持ってくるの忘れたしサイアク…面会おわたらさっさとウチに帰りたい…そんな事を思っていた矢先。
なんか身体がだるい、熱っぽいな…
最初軽い風邪ですよとタカをくくっていたけど、新型ウイルスで今までの治療法じゃ治らないぞ!と気づきいた。しかも名医・華佗は先日曹操の不興を買い処刑されちゃったんだっけ…ヤバイ、薬がない!治らないのか!と
「病状に関して憂いてる」間に急死してしまった。
肝心なところを削ったり荀彧に対してこじらせ気味な陳寿が、荀彧の急死を「薨じた」と表現している。(原文「以憂薨」)これは本来皇族やガチ貴人に対して使用する言葉。それを荀彧に使っているところに、本来のリスペクトと文中の素直に認めたくない反発心が透けて見えるよう。
読み方によっては、荀彧は魏公反対から曹操と不仲になり、人生詰んだと悲観して亡くなったようにも読めるけど、原文から文字をひろうとそうでもないんじゃないと言える。
生前、荀彧は曹操に「周の文王」みたいになってね!そのために補佐するから!と言っている。実際、曹操は「魏王」にはなったけど「魏帝」にはならなかった。
そこに他の人間が入り込めない二人の約束があると思うんだけどなあ。
正史には触れられていないけど、荀彧のお墓は亡くなった土地、寿春城の場外にあるという。
なんで寿春?大概、遠征中に亡くなった時は、遺体は故郷とか本拠地に運ばれてると思うんだけど。荀彧の息子たち、兄弟、親戚縁者、みな都で活躍してる人物ばかりなので、経済的にとか立場的にか連れて帰ってこれない訳が無い。
荀彧は生前、親戚の荀爽と仲の良かった何顒の遺体を潁川まで連れて帰っている。
「西に引き取りに行った」という記述があるので潁川から見て西、洛陽あたりの獄(収容所?)から連れて帰ってきちんとお弔いしたんだろう。
曹操も洛陽で亡くなり、死後鄴城に帰還している。
荀彧も潁川に帰り先祖代々のお墓(廟)に祀られるはずである。
なのになぜ寿春に埋葬されているんだろう?
そこに埋葬しないといけない理由があったんだろうか?
荀彧的には絡みのない土地なのに…
仮説としてタイムリーに想起されるのが、コロナウイルスである。
昭和を代表する国民的なコメディアンの方も、コロナにかかりあっという間に亡くなってしまった。亡くなった後、遺族はゆっくり別れを惜しむこともできなかっと聞いている。
コロナウイルスが指定伝染病であり、正体不明の病気なので亡くなった後も近づいてはいけないというのだ。
荀彧が旅中にかかった病気も特効薬のない流行病だったため、動かすことができず潁川まで連れて帰れなかったんじゃないだろうか。現に潁川には祖父・荀淑の墓や八龍塚(荀氏の八龍=荀淑の八人の息子たちの墓。荀彧の父親も含む)があり、現代まで残っている。
訳の分からない流行病にかかってしまって、やりたいことの途中で亡くなったのは悲しいけど
それを曹操との不仲とか確執とかに拡大解釈するのはちと解せませんな、
というのがみいくの考え方です。