2020年8月9日日曜日

魏書 荀彧伝 09(現代語訳)~官渡の戦い、「彧の策するが如し」袁紹軍の内部崩壊は荀彧が仕組んだ?|橘花美郁三国志☆




魏書 荀彧伝 09(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪




こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。

この記事は、

●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1

https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html

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三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう




魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き

200年官渡の戦い、

「彧の策するが如し」袁紹軍の内部崩壊は荀彧が仕組んだ?





建安5年(200年)、荀彧37歳の時。曹操と袁紹の戦いは続いていた。
曹操は官渡を拠点に置いていたが、袁紹の大軍に包囲された。兵糧もそこをつき、
最早これまでと親書を荀彧宛にしたため、一旦許昌に戻ること、許昌に袁紹をおびき寄せそこで一気に叩くのだと伝えた。

荀彧の意見はこうだった。
「今は兵糧不足とはいえかつて項羽と劉邦が滎陽、成皋でにらみ合っていたときほどではありません。この時項羽も劉邦もどちらも先に引こうとはしませんでした。先に引いた方が体勢を崩し敗北するとわかっていたからです。これまで曹公は敵の十分の一の戦力で拠点を守り抜き、敵の喉元を押さえつけたまま半年経過しています。
今敵陣では統制がほころびかけています、この後必ず状況が変わってきます。奇策を用いるチャンスです。この機を逃してはなりませんぞ」


みいく謂えらく、荀彧ってまるで敵地で見てきたかのような言い方をするけど、実は本当に見てきたんじゃないのかなあと思う。荀彧て政治家色が強いけど、そういう裏工作、根回し系が得意で、だからこそ後方支援、諜報活動とかもしていたのかなあ。
のちの赤壁の戦いで周瑜が船団の下見に、自ら斥候に立つシーンがあるけど。軍師さんたちはそういうのもコミコミで仕事していたのかも。



曹操は撤退を取りやめ、袁紹の別の駐屯地に奇襲をかけ、武将の淳于瓊らを斬った。袁紹はついに敗退した。
その後、審配が許攸の家族が不正をした罪で、許攸の妻子を拘束してしまった。許攸はこのさばきに腹を立て、袁紹を見捨て曹操側に寝返った。
顔良、文醜は陣中で首を取られ、田豊は袁紹への諫言を理由に処刑されてしまった。
荀彧が策を施した通りになった。



みいく謂えらく、原文に「彧の策するが如し」となっているので「策を施した通りになった」と訳した。ここを従来通り、荀彧の予言とか人間観察力で済ましてしまうのはどうなんだろう。袁紹軍の内部崩壊は荀彧が仕組んだと読み取ったほうが素直かと。


荀彧は破壊工作や陣中をウロウロすることはないという、思い込みに思えてしまうんだけど。



もっと深読みするなら、カモフラージュだったりして。
曹操が常々、荀彧を張良になぞらえたり、帷幄の中で策を練るキャラにしてるだけで結構最前線で変装した荀彧にすれ違っていたりして。バレないように、曹操も荀彧は本拠地で留守番してるよん♪と、、、、まあ一種の流言ですな。



よく考えると荀彧様 こっわ。涼しげな表情なのにまさかの手練れ。
でもそんな危険な香りも素敵❤︎(みいく個人の見解ですw)





官渡の戦いを始める前に荀彧と孔融が袁紹の部下たちについて論じ合う




曹操が徐州を平定し、この戦いを始める前に荀彧と孔融が袁紹の部下たちについて論じ合ったという。建安3年(198年)荀彧35歳の時である。


孔融は荀彧に向かって、袁紹の方に勝算があると考えていた。
袁紹の方が領土が広く、兵力が多く、人材も豊富だからというのである。知謀の士として田豊、許攸、忠義の士として審配、逢紀、武将としては顔良、文醜がいる。とても敵う相手ではないと。




荀彧はこれに反論して兵力は多いが締まりはなく、人材が多いと言っても田豊は強情で主君に逆らい、許攸は私欲が強く、 審配は独断で、逢紀は向こう見ず、顔良、文醜だってありきたりな武将にすぎないと言い切った。実際官渡の戦いでは荀彧の見方通りのことが起きた。




みいく謂えらく、この解説だと許攸ががめついけど一番まともなので、そこから切り崩したかったんだろうか。