魏書 荀彧伝 11(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪
こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。
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三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう
建安9年(204年)荀彧41歳の時、曹操は鄴を陥落させて冀州牧となった。あるものが曹操にこう進言した。「古の制度を真似て九州を復活させてはいかかがでしょう。冀州の領土は増え天下を従えることができるでしょう。」
曹操はこの策を受け入れた。しかし荀彧は反対した。
「なりません、このようなことをしたら冀州は(まだ手に入っていない、実効支配の)河東(かとう)、馮翊( ひょうよく)、扶風(ふふう)、西河(せいか)さらに幽州、并州のあたりまで勢力をのばさねばならず、(完全なる支配下に置くには)多くの土地を奪わなくてはならないでしょう。
先日、曹公は袁紹を破り審配を捕らえました。
国中が震え上がり、人々は自分の土地や兵隊を守り通せるかかと恐れております。今その土地を奪い冀州に併呑させてしまうと動揺がおきます。
しかも今関中の諸将に対し 関所(函谷関、武関)を閉ざしておくように勧めているものが多いと言います。次は自分たちの領地が狙われてると思っているのでしょう。
いったん状況が変われば、我々に大人しくしたがっている連中も怯えて反抗してくるかもしれません。そうなれば袁尚は死線を逃れ、袁譚は二心を抱き、 劉表は長江、漢水の間にのさばり続け、天下は不安定なままです。
曹公まずは急ぎ兵を率いて河北を平らげ、そのあとに旧都・洛陽を修復しましょう。そして南の荊州の劉表に使いを出し、年貢を収めていないことを追求してください。
そうすれば天下の人々は曹公の 真意を知り、次第に安定してくるでしょう。
天下が大いに定まったあとに、古代の制度である九州設置を考えましょう。それが国家を永続させるやり方です。」
曹操は、九州の設置を取りやめた。
曹操は自分の娘を荀彧の長子・ 荀惲(じゅんうん)にめあわせた
曹操は自分の娘を荀彧の長子・ 荀惲(じゅんうん)にめあわせた。のちに安陽公主と呼ばれた女性である。
荀彧と荀攸は揃って高官だったが、謙虚で慎ましい生活をしていた。 禄(給料)や下賜品は一族や知人にばら撒き、家に 余財を蓄えなかった。
建安12年(207年)、荀彧44歳の時、荀彧は 領邑千戸の加増を受け、合計二千戸となった。
裴松之の注に曰く、侍中の陳羣は孔融とともに汝南、潁川の人物について論じ合ったことがある。陳羣は荀一族についてこう述べている。(「荀氏家伝」より)
「荀彧、荀攸、荀衍(じゅんえん)、荀諶(じゅんしん)、荀悦は当世に並ぶ者がない。」
色々お勉強していた
この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい
そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。
橘花美郁について
ファン歴は30年ほど
イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。
私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆
ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1
https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html
(旧サイトです)
潁上華電視台DAY2
三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう
魏書 荀彧荀攸賈詡列伝 続き
曹操、鄴を陥落させ冀州牧へ!
九州設置はまだ早い、旧都・洛陽を修復し人々に真意を伝え国家を安定させましょう
建安9年(204年)荀彧41歳の時、曹操は鄴を陥落させて冀州牧となった。あるものが曹操にこう進言した。「古の制度を真似て九州を復活させてはいかかがでしょう。冀州の領土は増え天下を従えることができるでしょう。」
曹操はこの策を受け入れた。しかし荀彧は反対した。
「なりません、このようなことをしたら冀州は(まだ手に入っていない、実効支配の)河東(かとう)、馮翊( ひょうよく)、扶風(ふふう)、西河(せいか)さらに幽州、并州のあたりまで勢力をのばさねばならず、(完全なる支配下に置くには)多くの土地を奪わなくてはならないでしょう。
先日、曹公は袁紹を破り審配を捕らえました。
国中が震え上がり、人々は自分の土地や兵隊を守り通せるかかと恐れております。今その土地を奪い冀州に併呑させてしまうと動揺がおきます。
しかも今関中の諸将に対し 関所(函谷関、武関)を閉ざしておくように勧めているものが多いと言います。次は自分たちの領地が狙われてると思っているのでしょう。
いったん状況が変われば、我々に大人しくしたがっている連中も怯えて反抗してくるかもしれません。そうなれば袁尚は死線を逃れ、袁譚は二心を抱き、 劉表は長江、漢水の間にのさばり続け、天下は不安定なままです。
曹公まずは急ぎ兵を率いて河北を平らげ、そのあとに旧都・洛陽を修復しましょう。そして南の荊州の劉表に使いを出し、年貢を収めていないことを追求してください。
そうすれば天下の人々は曹公の 真意を知り、次第に安定してくるでしょう。
天下が大いに定まったあとに、古代の制度である九州設置を考えましょう。それが国家を永続させるやり方です。」
曹操は、九州の設置を取りやめた。
曹操は自分の娘を荀彧の長子・ 荀惲(じゅんうん)にめあわせた
この家系はイケメンの多い家系なのかな。荀悦もイケメンだったそうな
曹操は自分の娘を荀彧の長子・ 荀惲(じゅんうん)にめあわせた。のちに安陽公主と呼ばれた女性である。
荀彧と荀攸は揃って高官だったが、謙虚で慎ましい生活をしていた。 禄(給料)や下賜品は一族や知人にばら撒き、家に 余財を蓄えなかった。
建安12年(207年)、荀彧44歳の時、荀彧は 領邑千戸の加増を受け、合計二千戸となった。
裴松之の注に曰く、侍中の陳羣は孔融とともに汝南、潁川の人物について論じ合ったことがある。陳羣は荀一族についてこう述べている。(「荀氏家伝」より)
「荀彧、荀攸、荀衍(じゅんえん)、荀諶(じゅんしん)、荀悦は当世に並ぶ者がない。」
※荀衍は荀彧の一番上の兄。
監軍校尉として
鄴を守備した。軍人として功績をあげ列侯に封ぜられた
※荀諶は弟。袁紹のところから転職してきたのか
※荀悦は荀彧のいとこのお兄ちゃん。 秘書監侍中
※荀悦は荀彧のいとこのお兄ちゃん。 秘書監侍中
みいく謂えらく、荀悦もイケメンだったそうな。(後漢書だったかな)
この家系はイケメンの多い家系なのかな。ただ他の兄弟親戚には外見上の特徴が書き残されていないのでフツーだったんでしょうw。荀彧と荀悦をつなぐものってなんだろう?
母方が美人の家系なのか。荀彧の母と荀悦の母が姉妹だったとか。荀悦は文学者で「漢紀」を著わしたという。私が子供の頃持っていた広辞苑には、荀彧をさし置き荀悦の名前が出ていたので、そんなすごい人なのかーって思った記憶はある
記録で見る限り、長兄、次兄、荀彧、弟、4人兄弟のようだが(姉妹の存在は不明。書いてあるものに出会ったことがない)、次兄どこいった?
こんだけ有名な兄弟で
事績はおろか名前すら見たことないって一体…不良なら不良でそういう記述があってもいいのにな。もしくは
早逝?
魏の時代になってからの話。荀彧の息子たちはわずか30代で亡くなっていることが多いんだけど、政敵からの刺客でなければ遺伝的な何か?またはワーカホリック気味の父親荀彧を見て育ったための生活習慣病か?次兄との関係性もきになるところ。
九州設置のくだり。実際にその土地を手に入れたわけでもないのに、勝手に自分の国だから改名しちゃいまショウ☆っていったの誰やねん。まあ年貢的なものは納めさせたり従属させていたかもしれないけど。
いかにも手柄欲しさというか、ねえいいアイディアでしょ、うまいこといきましたら言い出しっぺのあっしにもお願いしますよ、色々と♪
…っていうのがスケスケに見えるんですが大丈夫?
そんなポンコツを一刀両断した荀彧だけども、世の中そんな聞き分けのいい善人だけじゃないよ…報復とか怖くなかったのかなとこっちが心配になるわ。
それも全て曹操のためであり、息子と同じくらいの年頃で天涯孤独になってしまった献帝のためかと思うと。
挙句に没後もずっと不幸の人扱いでは、孤独すぎるなあ。
献帝は荀彧、荀悦、孔融の3人を講師にして
色々お勉強していた
太子の時も荀氏からの人選になったんでしょう
荀衍の子、荀紹は太僕(行幸長官)になり、孫の荀融は洛陽の令(長官)になっただけでなく、「易経」「老子」などの研究にも業績を残した。
荀諶の子荀閎(じゅんこう)太子文学掾(たいしぶんがくえん)(皇太子の文書担当補佐)となり、その従孫の荀煇(じゅんき)太子中庶子(皇太子の侍従)となり、音律制定に業績を残し「易集解」を著わした。
みいく謂えらく、太子とは曹叡のことかなと思ったけど献帝にも一人息子がいたらしいのでそちらでしょう。献帝は荀彧、荀悦、孔融の3人を講師にして色々お勉強していたそうなので、太子の時も荀氏からの人選になったんでしょう。孔融は荀一族、というか荀彧をかなり目の敵にしていたようだけど、このパワーバランスでは気持ちはわからなくない。我こそ名門と思ってイラついてる孔融の姿が想像つくな…