魏書 荀彧伝 05(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪
この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい
そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。
橘花美郁について
ファン歴は30年ほど
イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。
私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆
ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1
https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html
(旧サイトです)
潁上華電視台DAY2
三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう
魏書 荀彧荀攸賈詡列伝 続き
曹操は献帝を迎え許を都に!
曹操は大将軍、荀彧は侍中、尚書令に
建安元年(196年)、荀彧33歳の時、曹操は黄巾軍を撃破した。漢の献帝は河東から元の都があった洛陽に戻った。曹操は献帝を迎え、許を都にしようと言った。
ある人は「山東はいまだに平定されていない。献帝を洛陽までお連れした韓暹(かんせん)、楊奉(ようほう)は北方の張楊と手をくんでおり簡単には制圧できないでしょう」
荀彧は曹操にこう勧めた。
「昔漢の高祖は東方(項羽)を征伐するにあたり、項羽に殺された楚の義帝を悼み、喪服を身につけて戦いました。ゆえに人々は高祖に心寄せました。
献帝がさすらいの身になられると、将軍はまず義兵を起こすことを唱えました。ただ東部での騒乱が続いたため関右にお迎えに行くことができなかっただけです。それでも身内の武将を派遣し危険を犯しながらも帝と連絡を取ってこられたのです。外の敵と戦いながらも心の中では漢王室の事を案じてこられたのです。これは将軍が天下を救おうという志の表れです。
今車駕(皇帝の乗る車)は軫宿にめぐらし(本来の場所、洛陽?)、義士は漢王室が元に戻るのを願っています。人々も在りし日の漢王室を懐かしみ悲しみにくれています。こんな時代こそ帝を奉じて人々の願いを叶えることこそ正しい道です。公正に徹して英雄豪傑帰服させること、これは大いなる戦略というものです。大義を掲げて英傑、俊才たちを手なづけること、これは大いなる徳義というものです。天下に逆らうものがあったとしてもなんの力になりましょうか。韓暹、楊奉ごときがなんの邪魔だてができましょうか。
このタイミングで決断せず、周辺の諸侯たち気づいて狙い始めてからは間に合いませんぞ。」
これにより曹操は洛陽に向かい、献帝を迎え許を都とした。
献帝は曹操を大将軍に、荀彧を侍中、尚書令に任命した。荀彧は常に中枢部にいて重要な立ち位置にいた。曹操は遠征し都の外にいるときも軍事や政治のことは常に荀彧と相談した。