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2019年2月24日日曜日

【みいく注】屈折しすぎだろ!後漢書荀彧伝に物申す!~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆




【みいく注】屈折しすぎだろ!後漢書荀彧伝に物申す!~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆






こんにちは!三国志ライター橘花みいくです!


この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1

https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html

(旧サイトです)


直近の活動はこちらご覧ください
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曹操の最古参の参謀にして、晩年は悲運だったと言われる荀彧様ですが
当時の歴史家の皆さんはやたら自殺だの追い詰められたの言ってくれますけどw


故郷の潁川郡が丸焼けになって茫然自失、
それでもここまで築きあげてきたんだぜ☆





全くもう!
それを言い出したら陳寿の魏書荀彧伝なんやねんですけどね


荀彧様の御最期になんか因縁つけたろっていう悪意を感じます

ただいくらか
陳寿の魏書より范曄の後漢書の方が遠慮が見えますけど




三国志が先で後漢書が後?
范曄が活躍した時期に荀彧様の7世の孫が歴史家として活躍
忖度(そんたく)したのかなw






意外にも編纂された時期は、後漢書の方が後になります

三国志は司馬氏の統一後(280年以降)、西晋の時代に書かれたものとされ、
後漢書はさらに時代が下った南北朝時代(432年以降)に書かれています

なんで先に後漢書から編纂しなかったんだろ?と思ったら
後漢が存在してるくらい前から書かれたものもあるにはあったけど、正直パッとしてなくてw
范曄がそれらをリミックスすることでメジャーに躍り出たというかんじでしょうか





そういえばこの宋の皇帝の中に、諱が劉彧、劉昱っているんだけど
これ絶対名前パクってるでしょ?と思った。范曄のリミックスで後漢の人物の人気が再燃したとかw   その割にバリ暗君で勘弁してーって思いますね!




范曄が活躍した時期に荀伯子がいますね。
荀彧様の7世の孫にあたる人で、歴史家としても一枚噛んでいたよう。
『晋史』の編纂を手伝ったとか。きっと范曄も仕事のつながりで荀伯子と絡みがあったはずなので「荀彧殿のことディスったら気まずい」と思っていたんでしょう



 話戻しますねw




九錫はまだ時期尚早!けど曹操に魏王にはなって欲しかった荀彧様





魏アンチの陳寿が書いた三国志荀彧伝が、だいぶフィルターかかってるのはわかるんだけど、范曄もちょっとひどい


『董昭たち』が曹操を魏公にしようと立ち回り、荀彧様がそれはダメでしょと止めに入り
曹操も内心穏やかじゃなかった。。。
そこはいいんだけど


これだとまるで曹操が魏公になるのを反対しているように受け取れますが、
荀彧様がいいたいのは(形式上であっても)帝から魏公にどうぞっていわれてからにしたら?
てかそこらへんの根回しのため、早くから皇帝秘書長(侍中尚書令)やってるのに段取りあるんやし横入りするなって!ということ。




そもそも、後漢の群雄割拠の時期に





『周の文王』みたいになってね!






と曹操に暗示かけたのは荀彧様なわけで。



魏公、魏王になる!

なってほしい!



というのは曹操と荀彧様の、出会いの頃からの共通認識だったはずです。


魏公→魏王就任し


『周の文王』みたいになってね!




の約束は果たされた。
正直勢いで皇帝にもなれたでしょうけど、
そこはならずに息子の曹丕に託している。




ここは周の文王が皇帝にはならず、基盤づくりのみに徹し、息子の武王が皇帝になり周王朝をひらいたことにぴったり符合していると思います。




その時の皇帝といったら悪名高き、
殷の紂王ですよ?!
むしろさくっと征伐してくれたほうが皆助かる感あっても、そこは謙虚に。
諸将たちが紂王より周の文王頼ってても帝位は簒奪しなかった。

それにより、あー文王さんて自分が皇帝になりたいんじゃなくて、自然と推戴されてその立ち位置なのね☆皆のこと考えてやってくれてるのね感でるじゃないですか。


息子が紂王倒しても、
待ってました!よくやった!感しか残らない




太公望も昔、紂王に仕えてみたけどコイツ無理ってなって後にバックレていますw
そこまで真似しなくてもいいと思いますよ、荀彧様w





曹操を周の文王に例えるからには、
荀彧様は俺太公望の役やるからね!と
宣言してるようなもの。




若いアラサーのビッグマウスが本当に形になっちゃった☆




太公望も昔、紂王に仕えてみたけどコイツ無理ってなって後にバックレていますw
そこまで真似しなくてもいいと思いますよ、荀彧様w


荀彧様のお父様の記事でも書きましたが、
ご幼少のころ、お父様の上司が根回しして皇帝を擁立しているのを見聞きしたことでしょう。
(後の漢の霊帝)



だから今は《大義名分の為にも》漢の献帝をお守りしないといけないけど、だからといって執着するわけでなくカスやったらどけてもいいんだという価値観をお持ちだったと推測できます。


日本人の考えるエンペラー(天皇)はずっと一つの一族ですが、
彼らの考えるエンペラーはちょっと違うのです。


「易姓革命」という考え方があり、万物もちろん王朝も変わっていくもの、
徳のある皇帝はリスペクトだけど国を傾ける皇帝は排していいというのがセオリーなのです。殷周秦漢…みんなエンペラーの名字違うでしょ。

それはそういう文化だからです。












非情になりきれず…その優しさが命取り
荀彧様の弱点であり素敵なところ❤

息子位の年の献帝に情がわいてしまった





ただ献帝って、荀彧様の息子位の年なんですね
189年生まれで、荀彧様とは26才も年が離れてる

 


ここが荀彧様のダメなところだと思うんですが、非情になりきれず…その優しさが命取りでしよー
皇帝秘書長してて常に近くにいるので、頼るものもない幸薄げな青年に情がわいてしまい
『魏公ちょっとまったー!』に繋がったんじゃないでしょうか?



「朕の気持ちを代弁してくれるのは今や
慈父(荀彧様のこと)しかない…

叶わぬまでも声はあげたい。ここにいる朕は籠の中の鳥と同じじゃ…」




とか切なそうに言われて、あーもうっ
ドライに切り捨てられない荀彧様のお姿が見える…w



このくだりは長くなりそうなので、
別でまた記事にしたいとおもいます☆



侍中光禄大夫の節を持って…誰に対して節刀をちらつかせ、牽制しようとしたのか?





後漢書荀彧伝に曰く、

曹操が帝に上奏し
一緒に謀りたいんでちょっと荀彧借りますと譙郡(城?)に呼んだ。侍中光禄大夫の節(刀?)を持たせた。



沛国譙郡て曹操の生まれ故郷じゃん!
なぜ郡に呼んだ?
戦の最前線はそこじゃないだろう
まさか譙郡のスタバで待ち合わせって訳にいかないので、城に入場したということ?
譙郡の城ってそんな大きかったかな?
あえての譙郡に呼びだしたの
何か意図を感じるけどなあ…
(十分に説明できる文献みつけたら追記します☆)


侍中光禄太夫の節を持ち…
節ってなんなんでしょう?

節は節刀を意味していて、戦時下で臨時に貸し出される指揮権のこと。
意訳すると、




『俺様(曹操)が呼んだんだ!邪魔する奴いたら俺の名前だしていいから!
てかお前の判断で斬っていいから!お前に背いた奴、逆賊って言っていいから!』



となります。



ちょっと疑問なんですが、このご時世で曹操と荀彧様に誰が面と向かって逆らうんでしょうか?普通に部下に対しては節刀など無くても抑えが利くはず。




抑えの効かない別の勢力(旧貴族など)に向けて、
曹操が荀彧様を守ろうとした愛情表現に見えてしょうがないんですが




戦時下で臨時に貸し出される指揮権、
本当に曹操が荀彧のことを恨んだり憎んでいたとしたら、
こんな「凶器」みたいな「節」を預けない




誰に対して節刀をちらつかせ、牽制しようとしたのか?




これ結構、荀彧様の謎に迫ってる気がする




節刀の威力を想像する前に確認を。
荀彧様自体、
●侍中尚書令(普通は1000石だけど特別に2000石にアップグレードしてもらってる)
●荀攸を使って断ったけど、三公になれる人




に、臨時で侍中光禄大夫(2000石)の節を持たせている。
なんで光禄大夫?光禄大夫のお仕事は議論をしたり、君主さんのコンサルみたいなことをする。尚書令としてじゃなく光禄大夫の節があることで、独断で斬っても許される人間が増える… 当時の尚書令より上で光禄大夫より下の者の誰かを牽制しようとしている、という風には読めないでしょうか?




本当に曹操が荀彧のことを恨んだり憎んでいたとしたら、
臨時とはいえこんな「凶器」みたいな節を預けないと思うのです。





極端に言ったら、夏侯惇や張遼だって斬れるのです
だって曹操の、いや皇帝からの節持ってるんですから。
一時的にですが、荀彧様の言葉が皇帝の言葉と同等に扱われるということです


それほどに気を使い、荀彧様が動きやすいように手配した曹操。




※2021年7月加筆。節って献帝からもらったとも考えられる?
いつも許昌で留守番してる荀彧が前線に行かなくてはいけないなら、
道中スムーズにいけるようにとの配慮?















空箱」と言ってしまいがちだけど、原文では「空器」

器と言ったら漆器、陶器、玉器、磁器など壺かお盆みたいな物。当時は当然上下水道なんてないから痰やつばを吐くための壺があった





濡須まで行くつもりが、病気のため寿春にとどまった荀彧様。


飲薬而卒時年五十



荀彧様のことが心配で、昔華佗に作らせた置き薬のいくつかを
箱に入れて届けさせた。ああこんなことになるのなら…4年前に戻りたい
華佗を生かしておけばよかった…
しかしそのお薬では荀彧様の体調はよくならなかった
最後の一個をゆっくり開け飲んだ…
ここまで気力だけで立っていたけど意識がなくなり、そのまま二度とお目覚めにならなかった…  そばには空の器があるばかりだった…




※2021年7月加筆。【病ではなく疾】それって疫病のこと?
コロナウイルスみたいなものが当時もあったんだろうか…




▼このブログ内の記事です




▼「空箱」のくだり、魏書ではこう書かれている





そうなんだよなー
通常「空箱」と言ってしまいがちだけど、原文では「空器」なんだよね。
器と言ったら漆器、陶器、玉器、磁器など壺かお盆みたいな物になる。




薬や食品を運ぶのに器が必要だったのか、
ダコ?当時は当然上下水道なんてないから痰やつばを吐くための壺があったそう
遠征中で物がないから代わりに新しい器をプレゼントしていたとか?
病気で咳が出たりするのは十分あり得るしな



わざわざ
空の容器を送った⇨薬を飲んで自決した



って書かなくても良くない?




薬が届けられた⇨薬飲んだから空になった





が普通でしょ?お付きの者が、持った時に軽くてなんも入ってなく感じたかもしれないけど粉薬だから軽いんだって!



譙って曹操の故郷でもあり名医華佗の故郷
もしかしたら子供か後継者的な人がいたのかも?




そういえば、この記事書きながら思ったのですが
譙って華佗の故郷でもありますね。華佗は曹操によって処刑されてしまいますが
奥様は譙にいたはず。もしかしたら子供か後継者的な人がいたのかも?
何かしら医術に携わっていたりして。
荀彧様の病気が普通の医者では手に負えないからと、華佗の後継者(弟子)を探し出し
譙まで連れ出したのか?!勅命を装ってw




濡須に行くのになんで譙を経由したか?
これが一つの仮説になりそうですね。譙にいる華佗の後継者に病状を診させ、それに合う薬を処方してもらった。けど昔のことだから薬草だのなんかの珍しい動物だの薬の材料を集めるにも時間がかかる。濡須に向かう途中、寿春に留まったのは病状の悪化も考えられるし出来上がった薬を早く受け取りたかったのもあるかもしれない



華佗にはひどいことしてしまったが、うちの荀彧を助けて欲しいと頭を下げたのかな、
曹操は。
だとしたら荀彧様は幸せ者ですね❤️




まとめ☆世界が嫉妬する、荀彧様は高徳で四海の皆様から愛されとんねん!別に不幸じゃないんだって!




つまりはこうです。
簡潔な記述でも、注釈入れる人間によってこうも解釈は変わる
正史って言っても所詮人の書いたもの。
正しくもあり、正しくもない。




荀彧様は50歳で亡くなられたというのは事実、
でも絶望のまま亡くなったのではなく、後世に残る文学史の創生に関わったし
曹操に出会ったこと、満足や喜びもあってのこと




てか見て分かんない?これだけ高徳で四海の皆様から愛されとんねんから
周りが勝手に不幸のレッテル貼ってもご本人はそうは思ってないんだって!



だから私が代弁します




荀彧様が曹操に可愛がられすぎで
頭よし顔よし性格よし家柄よしついでに匂いまでよしの荀彧様に
嫉妬するのやめてくれません?w




給料もらって正史編纂してるくせにアゲてオトすみたいな書き方ダサいから!




以上、
太史令・橘美郁の部屋でした!!
(あコーナーが違う?)



※長文お付き合いいただきありがとうございました☆
陳羣も喜んでいますw












2019年2月10日日曜日

【みいく注】荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?家族を守るために…荀彧様のパパもすごかった~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆

【みいく注】荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?家族を守るために…荀彧様のパパもすごかった~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆











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荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?素晴らしすぎて「八龍」と呼ばれていた☆尚書朱宇から済南国の相へ



赴任した済南国は首都洛陽から600キロも離れたところw
日本に例えたら東京から福岡に転勤するような感じ




魏書荀彧伝の冒頭で、荀彧様のおじいさまとお父様について触れられています

人となりは詳しくは書いてなくて荀コン兄弟らが素晴らしすぎて「八龍」と呼ばれていたこと、「済南の相」になったことだけさらりと描かれています。



…いつも思うんですが中国って土地がめちゃくちゃ広いし、さらっと言ってるけど結構な距離なんじゃあ…とおもったら案の定でしたw



赴任した済南国は首都洛陽から600キロも離れたところw

現代でも高速使って6時間半もかかるところを、当時は馬か馬車で行ったんでしょうね
日本に例えたら東京から福岡に転勤するような感じでしょうか
同じ中国だけどイントネーションも文化もだいぶ違ったと思います


私も関東から大阪に転勤してきましたけど、言葉のイントネーションだけでなく

ものを考える順序とか思想も全く違うなと感じることがありました


都会っ子の荀彧様が親の転勤とはいえ済南までいく?


そもそもなんで荀コンは600キロも離れたところに行くことになったか














魏書にはお父様の伝はないので、その前の年代の正史をたどると、

後漢書の竇何列伝(竇武と何進)のなかに当時の尚書台のメンバーが記述されています。
尚書令が陳蕃で、僕射が胡廣、その次に尚書朱宇が荀コンとなっています。





前後の文脈からすると延熹8年(165年)以降で霊帝が即位した建寧元年(168年)
荀コンは尚書朱宇と言う官職についていたようです。
(ここでも陳氏が出てくる。仲よすぎやろ)

荀彧様2~5歳の頃❤かわいい❤



お父さんの上司がなんか劉姓のおとなしそうな青年捕まえてきて皇帝にしちゃったよ…皇帝ってなんやねんって思ったことでしょうw




桓帝は跡継ぎがいなかったので、桓帝の皇后、大将軍竇武、太尉陳蕃が桓帝の親戚の子を連れてきて皇帝にまつりあげています(のちの霊帝)。



おそらく幼き日の荀彧様からしたら、

お父さんの上司がなんか劉姓のおとなしそうな青年捕まえてきて皇帝にしちゃったよ…
皇帝ってなんやねんって思ったことでしょうw

僕が学んでる古代の聖人、聖王の話なんて嘘じゃん!全然徳とかで選んでないじゃん!

なにこれ!いうこと聞くやつ座らしてるだけやないかい!
ってきっと思ったはずです。。。


話戻しますねw

そもそもなんで荀コンは600キロも離れたところに行くことになったか



済南の相?巻き添えくらって左遷?!それとも逃がされた?!中央から離れた済南国なら宦官たちの目も届かない












黄巾の乱ってめっちゃ災難だけど、それで救われた人もいる皮肉
難を逃れた清流派名士たち




桓帝の時代は宦官が強い力を持っていました。
ちょっと待ていと宦官潰しにいったのが、前述の竇武、蕃でした。




計画の途中で宦官にバレ、中核の二人はもちろんそれに関わった人たち、李庸とかも弾圧されます。

抗争は収まらず、宦官も徹底的にやり返そうとしたんでしょう。清流派名士を殺害したり政治の中枢から追い出し社会的に抹殺していきました(第二次党錮の禁)。




宦官たちの勢いは止まらず、その後15年近く清流派名士本人と一族を追いかけ回したのですが黄巾の乱が起こり、黄巾たちの方に亡命されたら困るので苛烈な弾圧を中止したようです。黄巾の乱って農民からしたらめっちゃ災難ですけど、それで救われた人たちもいるって皮肉ですね。


で、その頃でしょうか。

庸と荀彧様の祖父・荀淑は仲が良かったため、当然荀コンも宦官から見たら邪魔な存在だったに違いありません。ここで唐突に済南の相になるという、異動の事実だけが記述されています。李庸、陳蕃たちとも相当近くにいて荀家でも被害をこうむった身内がいて、殺されてもおかしくない立ち位置にいるのに…




ここんところを私は、


嫁のお父さん(唐衡)の力で逃してもらったのかなと考えています



こんなところで死んではならんと、中央から離れた済南を紹介してあげたんじゃないでしょうか。ちょっと都からは遠くなるけど、ここなら宦官たちの目も届かないだろうし、相(県知事クラス)なら尚書の時よりかは下がるけどそれほど給料も悪くない、地方でのんびりしておいでとか



もちろん荀家一族のネットワークはありますよ



唐衡⇄荀淑(➕荀彧)
の中に



宦官とか清流派を超えた関係性があって、
上っ面の官職でなく人物そのものを見破る、荀彧様の鋭い観察力はそこで養われたんでしょうねw




済南国ではいくらか質素になったけど穏やかで学問に集中できる環境はあったのかな
亡き父がなしえなかった『仕事』を継ぎたくて尚書台へ






済南に行ってからは荀彧様は田舎でのびのび勉強に励まれたんじゃないでしょうか。



お父様が中央で尚書してた時に比べたら

いくらか質素になったけど穏やかで学問に集中できる環境はあったのかなと思います。




食べ物と学問にはしっかりお金をかけるけど

見栄のためにはお金を使わない




とか。魏志荀彧伝のなかで、

『身分上の定めに縛られるのを嫌がり、高官なのに敷物を重ねて座ることもなかった』という記述があるのですが、きっとこれ済南時代のお金に苦労した時代があるからこその自然な振る舞いなんでしょうね。



永漢元年(189年)、荀彧様23歳の時、孝廉に推挙され再び中央に戻ります

(その後すぐバックレるんだけども…)
その頃までは済南ライフを楽しんでいたと思われます



今度は荀彧様がパパになって

亡き父がなしえなかった『仕事』を継ぎたくて、尚書台を希望したんでしょうか
かつての父の仕事場を見て、廃れてしまった古代の礼儀とか「俺がやらなくては!」と何かに火がついたとか❤️



後年、尚書令(長官)を務めた息子に、

「昔の俺を越えやがって…フッ(^0^)」と言う
天国のお父様の声が聞こえたとか聞こえなかったとか…w









【みいくの注釈】人となりは家柄や官職でははかれない~幼少期の荀彧に影響を与えた義理のお父様・大宦官 唐衡の話~|橘花美郁三国志☆



【みいくの注釈】人となりは家柄や官職でははかれない~幼少期の荀彧に影響を与えた義理のお父様・大宦官 唐衡の話~|橘花美郁三国志☆





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清流派の荀彧様が、宦官家の曹操に仕えるってどうなの?




荀彧様といえば、曹操を支え天下取りに貢献した謀臣として描かれています。
実際曹家は宦官の家の者、
宦官に真っ向対決していたのが清流派知識人と呼ばれる人たちなのですが、
清流派の荀彧様が、宦官家の者に支えるって当時としたら異常じゃないですか?



黄巾の乱の少し前、
李庸ら清流派知識人の多くが粛清され、当然荀彧様の身内にも当然被害をこうむったはずなのに…



私は最初は異常に感じていました。
昔なんてとくに身分上の定めが厳しかった時代であり、回りは反対しなかったのか?

その秘密は荀彧様の幼少期にあるようです



『人となりは家柄や官職でははかれない』

幼少期の荀彧に影響を与えた義理のお父様

・大宦官 唐衡の話








その前に奥様の話を。
荀彧様の奥様は唐氏と言い、朝廷でバリバリ力を持っていた唐衡の娘です。
この頃は夫婦別姓が基本で、女性は結婚しても名字が変わらず旧姓で呼ばれていました




宦官って子供作れないよね?って気づいた方もいるでしょう




当時は家督を継ぐため、養子縁組していたみたいです。
あれだけ力を持てたらその代で終わらせたくないですもんね。




宦官たちの養子縁組リストには意外にも清流派知識人の子弟も多かったみたいです。



出典はなんかの重めの歴史本の一節なんですが、清流派知識人の多くは第1次、第2次党錮の禁で殺されたり政治の中枢からリストラされます。いきなり無職で生活に困ったけど、今までみたいな官職には体制が変わるまで就けない。



地方に移住して職を求めるか、中央で生きるなら権力者の家に養子縁組するか。





▼過去の記事こんなのあります









生き残るためにその中に宦官家を選ぶのもまんざらでもないという流れになってきていたんだと思います。
実際、宦官でも人格者、いい人いるからね。紙を発明したとされる蔡倫も宦官だし。


その唐衡は荀彧の祖父、荀淑とも親しかったようです




(ネットで検索しても思った物が全然ヒットしないので、おそらく歴史読本かなんかのコラムの一つだったか、、、)



潁川の地元のスーパー名士のじいちゃんとツーツーの宦官!



唐衡自体は宦官の割には話せる人で、(言い方よw)
憧れのおじいちゃんのこともよく話してくれるし、気さくだし




清流派の人間の中には宦官てだけでムリ、こいつらの世話になるなら死にますっていうような人達もいたけど、清流派同士も派閥もあるし(潁川清流派vs汝南清流派のような)




スカして知識人気取ってたってお前らの方がカスやんけ!って思いもあったと思います
実際の『人となりは家柄や官職でははかれない』というのを、荀彧様はここで学ばれたんだと思いますw










荀彧様、大人たちに勝手に許嫁にされてしまう

まだ二歳だというのにw






そこの同い年くらいの娘と荀彧様、大人たちに勝手に許嫁にされてしまう
まだ二歳だというのにw  でも現代でも親戚同士が集まるとこんな話しませんか?
私も小さい頃、親戚の同い年の男のとくっつけられたことがあったっけw
私にはシビアな政略結婚といより、のんきな田舎の親戚の戯言の延長にくらいしか思ってないんですけどね




ちなみに奥様の親戚のおっちゃんの唐珍は、司空まで務めたというから
ひとかどの人物でしょう。幼少期はリアル神童と言われていたのですが、官職はお金で買っちゃったパターンであかん方の宦官でしたねw



荀彧様と唐氏はお坊ちゃんとお嬢どうしみたいな感じなのかな?




ちなみに唐珍と荀爽も、司空職ニアミスですね!
ここら辺でも接点があったんじゃないかなと思っています。


荀爽が移動中にしたっぱから司空に飛び級で上がったエピソードは有名ですが、それが黄巾の乱(184年)直後なので、唐珍の司空就任が173年から考えると任期が近いので推薦とか唐珍サイドからのプッシュもあったんじゃないかと


多感な時期にキタナイ大人達をたくさんみすぎたからこそ
荀彧様のあの徹底した人生哲学が生まれたんだと思いますw



お金と人となりは違うし、官職と人となりも違う
人格者でもお金に汚い奴もいるし


その中で自分でどうなりたいか、どんな人に仕えたいか
はっきりしたビジョンが出来上がっていたんだと思います


どんなに粛清されても
自分のビジョンをつらぬける奴がかっこいいとそこで目覚められたんでしょう、きっとw


それがまた曹操との出会いに繋がっていくんですね

【わかりみ】荀彧ってざっくり言うとどんな人?何した人なの?一人の男の決意と熱意の賜物~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆

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