曹操の最古参の参謀にして、晩年は悲運だったと言われる荀彧様ですが
当時の歴史家の皆さんはやたら自殺だの追い詰められたの言ってくれますけどw
故郷の潁川郡が丸焼けになって茫然自失、
それでもここまで築きあげてきたんだぜ☆
全くもう!
それを言い出したら陳寿の魏書荀彧伝なんやねんですけどね
荀彧様の御最期になんか因縁つけたろっていう悪意を感じます
ただいくらか
陳寿の魏書より范曄の後漢書の方が遠慮が見えますけど
三国志が先で後漢書が後?
范曄が活躍した時期に荀彧様の7世の孫が歴史家として活躍
忖度(そんたく)したのかなw
意外にも編纂された時期は、後漢書の方が後になります
三国志は司馬氏の統一後(280年以降)、西晋の時代に書かれたものとされ、
後漢書はさらに時代が下った南北朝時代(432年以降)に書かれています
なんで先に後漢書から編纂しなかったんだろ?と思ったら
後漢が存在してるくらい前から書かれたものもあるにはあったけど、正直パッとしてなくてw
范曄がそれらをリミックスすることでメジャーに躍り出たというかんじでしょうか
そういえばこの宋の皇帝の中に、諱が劉彧、劉昱っているんだけど
これ絶対名前パクってるでしょ?と思った。范曄のリミックスで後漢の人物の人気が再燃したとかw その割にバリ暗君で勘弁してーって思いますね!
范曄が活躍した時期に荀伯子がいますね。
荀彧様の7世の孫にあたる人で、歴史家としても一枚噛んでいたよう。
『晋史』の編纂を手伝ったとか。きっと范曄も仕事のつながりで荀伯子と絡みがあったはずなので「荀彧殿のことディスったら気まずい」と思っていたんでしょう
話戻しますねw
九錫はまだ時期尚早!けど曹操に魏王にはなって欲しかった荀彧様
魏アンチの陳寿が書いた三国志荀彧伝が、だいぶフィルターかかってるのはわかるんだけど、范曄もちょっとひどい
『董昭たち』が曹操を魏公にしようと立ち回り、荀彧様がそれはダメでしょと止めに入り
曹操も内心穏やかじゃなかった。。。
そこはいいんだけど
これだとまるで曹操が魏公になるのを反対しているように受け取れますが、
荀彧様がいいたいのは(形式上であっても)帝から魏公にどうぞっていわれてからにしたら?
てかそこらへんの根回しのため、早くから皇帝秘書長(侍中尚書令)やってるのに段取りあるんやし横入りするなって!ということ。
そもそも、後漢の群雄割拠の時期に
『周の文王』みたいになってね!
と曹操に暗示かけたのは荀彧様なわけで。
魏公、魏王になる!
なってほしい!
というのは曹操と荀彧様の、出会いの頃からの共通認識だったはずです。
魏公→魏王就任し
『周の文王』みたいになってね!
の約束は果たされた。
正直勢いで皇帝にもなれたでしょうけど、
そこはならずに息子の曹丕に託している。
ここは周の文王が皇帝にはならず、基盤づくりのみに徹し、息子の武王が皇帝になり周王朝をひらいたことにぴったり符合していると思います。
その時の皇帝といったら悪名高き、
殷の紂王ですよ?!
むしろさくっと征伐してくれたほうが皆助かる感あっても、そこは謙虚に。
諸将たちが紂王より周の文王頼ってても帝位は簒奪しなかった。
それにより、あー文王さんて自分が皇帝になりたいんじゃなくて、自然と推戴されてその立ち位置なのね☆皆のこと考えてやってくれてるのね感でるじゃないですか。
息子が紂王倒しても、
待ってました!よくやった!感しか残らない
太公望も昔、紂王に仕えてみたけどコイツ無理ってなって後にバックレていますw
そこまで真似しなくてもいいと思いますよ、荀彧様w
曹操を周の文王に例えるからには、
荀彧様は俺太公望の役やるからね!と
宣言してるようなもの。
若いアラサーのビッグマウスが本当に形になっちゃった☆
太公望も昔、紂王に仕えてみたけどコイツ無理ってなって後にバックレていますw
そこまで真似しなくてもいいと思いますよ、荀彧様w
荀彧様のお父様の記事でも書きましたが、
ご幼少のころ、お父様の上司が根回しして皇帝を擁立しているのを見聞きしたことでしょう。
(後の漢の霊帝)
だから今は《大義名分の為にも》漢の献帝をお守りしないといけないけど、だからといって執着するわけでなくカスやったらどけてもいいんだという価値観をお持ちだったと推測できます。
日本人の考えるエンペラー(天皇)はずっと一つの一族ですが、
彼らの考えるエンペラーはちょっと違うのです。
「易姓革命」という考え方があり、万物もちろん王朝も変わっていくもの、
徳のある皇帝はリスペクトだけど国を傾ける皇帝は排していいというのがセオリーなのです。殷周秦漢…みんなエンペラーの名字違うでしょ。
それはそういう文化だからです。
非情になりきれず…その優しさが命取り
荀彧様の弱点であり素敵なところ❤
息子位の年の献帝に情がわいてしまった
ただ献帝って、荀彧様の息子位の年なんですね
189年生まれで、荀彧様とは26才も年が離れてる
ここが荀彧様のダメなところだと思うんですが、非情になりきれず…その優しさが命取りでしよー
皇帝秘書長してて常に近くにいるので、頼るものもない幸薄げな青年に情がわいてしまい
『魏公ちょっとまったー!』に繋がったんじゃないでしょうか?
「朕の気持ちを代弁してくれるのは今や
慈父(荀彧様のこと)しかない…
叶わぬまでも声はあげたい。ここにいる朕は籠の中の鳥と同じじゃ…」
とか切なそうに言われて、あーもうっ
ドライに切り捨てられない荀彧様のお姿が見える…w
このくだりは長くなりそうなので、
別でまた記事にしたいとおもいます☆
侍中光禄大夫の節を持って…誰に対して節刀をちらつかせ、牽制しようとしたのか?
後漢書荀彧伝に曰く、
曹操が帝に上奏し
一緒に謀りたいんでちょっと荀彧借りますと譙郡(城?)に呼んだ。侍中光禄大夫の節(刀?)を持たせた。
沛国譙郡て曹操の生まれ故郷じゃん!
なぜ譙郡に呼んだ?
戦の最前線はそこじゃないだろう
まさか譙郡のスタバで待ち合わせって訳にいかないので、城に入場したということ?
譙郡の城ってそんな大きかったかな?
あえての譙郡に呼びだしたの
何か意図を感じるけどなあ…
(十分に説明できる文献みつけたら追記します☆)
侍中光禄太夫の節を持ち…
節ってなんなんでしょう?
節は節刀を意味していて、戦時下で臨時に貸し出される指揮権のこと。
意訳すると、
『俺様(曹操)が呼んだんだ!邪魔する奴いたら俺の名前だしていいから!
てかお前の判断で斬っていいから!お前に背いた奴、逆賊って言っていいから!』
となります。
ちょっと疑問なんですが、このご時世で曹操と荀彧様に誰が面と向かって逆らうんでしょうか?普通に部下に対しては節刀など無くても抑えが利くはず。
抑えの効かない別の勢力(旧貴族など)に向けて、
曹操が荀彧様を守ろうとした愛情表現に見えてしょうがないんですが
戦時下で臨時に貸し出される指揮権、
本当に曹操が荀彧のことを恨んだり憎んでいたとしたら、
こんな「凶器」みたいな「節」を預けない
誰に対して節刀をちらつかせ、牽制しようとしたのか?
これ結構、荀彧様の謎に迫ってる気がする
節刀の威力を想像する前に確認を。
荀彧様自体、
●侍中尚書令(普通は1000石だけど特別に2000石にアップグレードしてもらってる)
●荀攸を使って断ったけど、三公になれる人
に、臨時で侍中光禄大夫(2000石)の節を持たせている。
なんで光禄大夫?光禄大夫のお仕事は議論をしたり、君主さんのコンサルみたいなことをする。尚書令としてじゃなく光禄大夫の節があることで、独断で斬っても許される人間が増える… 当時の尚書令より上で光禄大夫より下の者の誰かを牽制しようとしている、という風には読めないでしょうか?
本当に曹操が荀彧のことを恨んだり憎んでいたとしたら、
臨時とはいえこんな「凶器」みたいな節を預けないと思うのです。
極端に言ったら、夏侯惇や張遼だって斬れるのです
だって曹操の、いや皇帝からの節持ってるんですから。
一時的にですが、荀彧様の言葉が皇帝の言葉と同等に扱われるということです
それほどに気を使い、荀彧様が動きやすいように手配した曹操。
※2021年7月加筆。節って献帝からもらったとも考えられる?
いつも許昌で留守番してる荀彧が前線に行かなくてはいけないなら、
道中スムーズにいけるようにとの配慮?
「空箱」と言ってしまいがちだけど、原文では「空器」
器と言ったら漆器、陶器、玉器、磁器など壺かお盆みたいな物。当時は当然上下水道なんてないから痰やつばを吐くための壺があった
濡須まで行くつもりが、病気のため寿春にとどまった荀彧様。
飲薬而卒時年五十
荀彧様のことが心配で、昔華佗に作らせた置き薬のいくつかを
箱に入れて届けさせた。ああこんなことになるのなら…4年前に戻りたい
華佗を生かしておけばよかった…
しかしそのお薬では荀彧様の体調はよくならなかった
最後の一個をゆっくり開け飲んだ…
ここまで気力だけで立っていたけど意識がなくなり、そのまま二度とお目覚めにならなかった… そばには空の器があるばかりだった…
※2021年7月加筆。【病ではなく疾】それって疫病のこと?
コロナウイルスみたいなものが当時もあったんだろうか…
▼このブログ内の記事です
▼「空箱」のくだり、魏書ではこう書かれている
そうなんだよなー
通常「空箱」と言ってしまいがちだけど、原文では「空器」なんだよね。
器と言ったら漆器、陶器、玉器、磁器など壺かお盆みたいな物になる。
薬や食品を運ぶのに器が必要だったのか、
ダコ?当時は当然上下水道なんてないから痰やつばを吐くための壺があったそう
遠征中で物がないから代わりに新しい器をプレゼントしていたとか?
病気で咳が出たりするのは十分あり得るしな
わざわざ
空の容器を送った⇨薬を飲んで自決した
って書かなくても良くない?
薬が届けられた⇨薬飲んだから空になった
が普通でしょ?お付きの者が、持った時に軽くてなんも入ってなく感じたかもしれないけど粉薬だから軽いんだって!
譙って曹操の故郷でもあり名医華佗の故郷
もしかしたら子供か後継者的な人がいたのかも?
そういえば、この記事書きながら思ったのですが
譙って華佗の故郷でもありますね。華佗は曹操によって処刑されてしまいますが
奥様は譙にいたはず。もしかしたら子供か後継者的な人がいたのかも?
何かしら医術に携わっていたりして。
荀彧様の病気が普通の医者では手に負えないからと、華佗の後継者(弟子)を探し出し
譙まで連れ出したのか?!勅命を装ってw
濡須に行くのになんで譙を経由したか?
これが一つの仮説になりそうですね。譙にいる華佗の後継者に病状を診させ、それに合う薬を処方してもらった。けど昔のことだから薬草だのなんかの珍しい動物だの薬の材料を集めるにも時間がかかる。濡須に向かう途中、寿春に留まったのは病状の悪化も考えられるし出来上がった薬を早く受け取りたかったのもあるかもしれない
華佗にはひどいことしてしまったが、うちの荀彧を助けて欲しいと頭を下げたのかな、
曹操は。
だとしたら荀彧様は幸せ者ですね❤️
まとめ☆世界が嫉妬する、荀彧様は高徳で四海の皆様から愛されとんねん!別に不幸じゃないんだって!
つまりはこうです。
簡潔な記述でも、注釈入れる人間によってこうも解釈は変わる
正史って言っても所詮人の書いたもの。
正しくもあり、正しくもない。
荀彧様は50歳で亡くなられたというのは事実、
でも絶望のまま亡くなったのではなく、後世に残る文学史の創生に関わったし
曹操に出会ったこと、満足や喜びもあってのこと
てか見て分かんない?これだけ高徳で四海の皆様から愛されとんねんから
周りが勝手に不幸のレッテル貼ってもご本人はそうは思ってないんだって!
だから私が代弁します
荀彧様が曹操に可愛がられすぎで
頭よし顔よし性格よし家柄よしついでに匂いまでよしの荀彧様に
嫉妬するのやめてくれません?w
給料もらって正史編纂してるくせにアゲてオトすみたいな書き方ダサいから!
以上、
太史令・橘美郁の部屋でした!!
(あコーナーが違う?)
※長文お付き合いいただきありがとうございました☆
陳羣も喜んでいますw