2020年7月26日日曜日

魏書 荀彧伝 02(現代語訳)~荀彧は袁紹が苦手!「我が子房なり」って全然おとなしい人じゃないぜっw|橘花美郁三国志☆




魏書 荀彧伝 02(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪




こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。

この記事は、

●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1

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三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう


魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き

荀彧は袁紹の実務スキルどうこうだけじゃなく、ただ嫌いだったんじゃあ





冀州につくと袁紹が韓馥の立場を奪い冀州牧になっていた。袁紹は荀彧を最上級のVIP待遇で応対した。弟の荀諶(じゅんしん)や同郷人の辛評(しんぴょう)、郭図らも袁紹に任用されていた。荀彧は袁紹じゃあ大事業を成し遂げることはできないと判断した。




みいく謂えらく、袁紹と何顒は親しかったという。何顒は叔父荀爽や自分とも親しく好意的である。
荀彧は袁紹の実務スキルどうこうだけじゃなく、ただ嫌いだったんじゃあ…何顒は投獄されたり大変な目にあってるのにあんた名家の袁氏の人間だろ!?なんで助けないの?あんたら友達なんだろ!みたいな。みいくが思うに袁紹のこと相当嫌いなんだと思うw
弟の荀諶がいるのに、袁紹からの士官の誘いシカトしたら弟が組織の中で気まずくなるでしょ。そんなことに気づかぬ荀彧ではないと思うんだが、袁紹嫌いの方が上回ったw



しかもこの弟くん、他の歴史書では荀彧の兄と書かれているものもある。
主従関係や兄弟順にとかくウルサイこの時代に、兄弟順がファジーってなんなん?
実は腹違いとか。奧さんがたくさんいてもおかしくないこの時代、兄弟でも母が違うこともあるし、本当は同い年で、片方が数日早く産まれたけど正妻の子供の方が兄と呼ばれていることも想定できるかもしれない。


全体的に紀伝体で記述があっさりなのはわかるんだけど、ドライすぎない?この兄弟。
リアクションなし?荀諶もなんかいいなよw「潁川から移住してきた兄を迎え、連日酒宴を設け、袁紹のいいところをたくさん伝えた、けど荀彧はなびかなかった」ならわかるけど…
潁川に残った知人たちは皆戦火に巻き込まれたり殺されている、命からがら移住してきたお兄様ですよ…なんかないの?何か引っかかる…この距離感。これは陳寿の罠かっ
(曹操は荀彧が訪ねてきてくれて俺の子房がきてくれた❤︎といったくらいなのに)

後年官渡の戦いで袁紹の一族を滅ぼした。いつかの上奏文で曹操の徐州での虐殺はたしなめたのに、袁氏一族をとことん地獄の果てまで追い回している。これを先導しているのが荀彧だったらコワイ。袁紹絶っっっ対許すまじという強い意志を感じます



荀彧、袁紹の元を去って曹操につく
曹操は荀彧が来てくれたので大層喜び「俺の子房が来てくれた!」つながった点と点。荀彧の父は済南国の相、曹操も東郡太守の前は済南国の相だった





その頃、曹操は奮武将軍として東郡を治めていた。初平2年(191年)荀彧28歳の時(当時は数え年なので29歳となる)、袁紹の元を去って曹操についた。曹操は荀彧が来てくれたので大層喜び「俺の子房が来てくれた!」とまでいった。荀彧を司馬(副官、参謀)に任命した。荀彧29歳の時である。
当時董卓の権威は強く天下を押さえつけていた。太祖(曹操)は董卓について荀彧に聞いてみた。「董卓の理不尽パワハラハンパないんで、反感買って自滅します。何もできはしないです」
その後董卓は李傕たちを関東(函谷関より東)に出撃させた。李傕らはいく先々で略奪を重ね、潁川、陳留まできて引き返した。案の定、潁川に残った人たちの多くがその時殺害されてしまった。



みいく謂えらく、荀彧が曹操の元を訪ねた際、どんなやりとりがあったかは明らかにされてない。けどその後の本拠地の留守番やなんでも頼む信頼感はそんないきなり作られるものなんだろうか。初対面の若造に自分の命(生命線)を安易に預けられるんだろうか?あの用心深い曹操がですよ?世間の噂だけで信用するかなあ もともと別の場所で一緒に仕事していたり絡んでいた時期があり、自分の目で見て性格や仕事の手際の良さをわかっていたとか、荀彧に丸投げするスタイルの下地がすでにあったと考える方が自然じゃないだろうか。


荀彧の父は済南国の相だったけど、曹操も東郡太守の前は済南国の相だった。184年の黄巾の乱を鎮圧したことを評価され、曹操は済南国の相になっている。
(184年、荀彧が21歳の頃(当時の数え年で22歳の頃))
済南国で荀彧が父の仕事を手伝っている時、曹操がこの地に異動してきたとか?
しばらくは引継ぎで一緒に仕事をしていたのかも?荀彧父子から色々街のことを「教えて」もらう曹操。荀彧の曹操に対して若干「上から」いく関係性は、この頃培われたのかもしれない?w

親戚の荀爽や荀攸は投獄されて大変だったのに、荀彧父子はそれ程危険な目にあってないのは中央から地理的に離れたところに住んでいたからなのかもしれない。それがたまたまだったのか嫁の実家の唐家の配慮なのか…



「我が子房なり」「俺の子房が来てくれた!」

ごめんやけど張良って優男かもしれないけど全然おとなしい人じゃないぜっw




そして常々みいくが疑問に思っているくだり。
曹操が前漢建国の功臣・張良になぞらえ、「我が子房なり」と荀彧を讃えるのは名言(名言て言うのか?)だけども、ごめんやけど張良って優男かもしれないけど全然おとなしい人じゃないぜっw



一般的には張良という人、
女性的な(中性的な)見た目のイケメン
野戦とか一騎打ちはしないけど、後方の大本営から指示飛ばす人
張良の知恵がなければ劉邦は天下を取れなかった
と言われている。





そしてもう一つ、
【始皇帝の暗殺を企てる】→【実行したけど未遂に終わった




虫も殺さぬようなたおやかな美青年の張良が、始皇帝消しにいってるんですよ…単独で…



曹操が言いたかったのはむしろこっち…w



三国志演義では曹操も董卓暗殺しようとして失敗しているシーンがありますね
まさかまさか。潁川の荀彧ぼっちゃまが董卓暗殺計画するなど、ずぇぇったいバレてはいけないもみ消さないといけない事項。表沙汰には絶対してはいけない。




けど曹操からしたら自分と志が同じだから、なんかあったら俺が守ってやるという気持ちもあったのかもしれない。


…当時親戚や清流派仲間の大人たちが董卓打倒に命をかけ、暗殺計画していた時期に
荀彧が何も思わないわけないし行動を起こさないとも言い切れない。



そう考えると、せっかく孝廉に推薦されてきたのに、地方の亢父の令になりたがったのも、董卓暗殺計画の一部だったのかも。逃げ道を作るための伏線とも言えなくもない