三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう
魏書 荀彧荀攸賈詡列伝 続き
荊州の劉表を討伐!この後有名な赤壁の戦いに繋がっていくのに荀彧の献策がすっぽり抜けて存在しないのはなぜ?
曹操は荊州の劉表を討伐しようと考えていた。荀彧に尋ねた。「何かいい策はないか」
「今夏華(中原)は平定されおり、南方の劉表はヤバイなと思っていることでしょう。
陽動作戦です。苑、葉方面に一隊を出撃させ、それと別に軽装の兵士たちを間道(抜け道)沿いに進行させます。相手の不意をつくことです」
曹操はその策を取り入れた。たまたま劉表が病死した。曹操は荀彧の策どおり苑、葉まで向かった。劉表の息子・劉琮が応対し荊州は降伏した。(戦闘せず城を明け渡した)
みいく謂えらく、この後有名な赤壁の戦いに繋がっていくのに、ここら辺の荀彧の献策がすっぽり抜けて存在しないのには悪意を感じる。
官渡の戦いであんなページ使ったのに、小規模の小競り合いでも相手の心理まで深読みして作戦練る荀彧が赤壁の戦いの時に何も意見を求められてないはずはなく…意図的に消したわね、陳寿。あんたは元々蜀の人間かもしれないがちゃんと後世に残すべきことは残しとけよと言いたい。
それぐらい、丸ごと秘匿してしまうほどに的確な献策を荀彧はしていたとも読み取れるけどね。
劉琮はあっさり降伏している。あっさりというか、そうさせた。前振りで、
許都に遷都してから劉表さん年貢一回も納めてないっすスよね〜俺らをナメてんのか、それとも帝のことナメてる感じっスか?とコワイ文章を送りつけておいたのでそれが効いたと思う。
降伏したら滞納した年貢は無しにしてあげるし、帝にもイイ感じで報告しておくから♪とでも言ったんだろうか…
赤壁の戦いってしなくてよかったんじゃね?
劉備を江陵に入城させるな!劉表の病死でバタバタしておかしな展開になってしまった
以下、【消された赤壁のページがあったつもり】で書いていきます。
曹操は荊州の州都・襄陽城に入場した。都にいる荀彧に手紙を送った。
「劉表の客将だった劉備が荊州の人間たちを扇動して逃げたようだ、官吏や農民ばかり10万人以上も減ってはかなわん。城下町が空っぽだ。即刻追いかける」
荀彧はこう返答した。
「追いかけたところで無駄でしょう。皆劉備の話を信じ込み、また自分ら庶民の声を代弁してくれると思い込んでいますから引き離すのは容易ではありません。
劉備の行き先は、おそらく江陵でしょう。備蓄もあるし交通の要所です。親戚の劉琦がいるのでそこに避難し時期を待つつもりでしょう。
しかも劉備には義弟の関羽、張飛がおり、まともにやり合うのは危険です。まずは劉備が江陵につくまえに劉琦に使いを送り、劉表が年貢を怠ったこと、劉琮がそれをリカバリーするために我らの指示に従うことになったと伝えるべきです。劉琦にもリカバリーに協力するように、劉備に加担しないように説得することです。劉備が不用意に人々を怖がらせ、嘘の情報で朝廷の権威を貶めたことを指摘し、絶対に江陵に入城させるなと釘をさすことです。
劉琦もまだ若いし政治的な経験は乏しい。好んで戦闘仕掛けてくるとは思い難い。まして朝敵なんて言われたら慌てて指示に従うはずです。
一族の年長者の劉備に言われ、そうかなーと思って従っているだけですから。
親戚同士なので助けたいと思うはずですから、長いこと繋いでおけなくてもこの冬の間こちらにつけていくことができれば良いでしょう。(8月に劉表病死、9月に劉琮降伏、この頃は陰暦なので10月はもう冬、だいぶ寒い。地球単位で見ても寒冷期に当たる)
江陵に入城できないと知れば飢えや冬の寒さに耐えきれず、飛び出した官吏や農民たちも戻ってくることでしょう。さしもの豪傑たちも空腹で野宿連泊では力が出しきれますまい。
その上で奇計を持って当たれば、劉備たち義兄弟は捉えることができましょう。
それより東呉の人間が、劉備と接触をもとうとしているようです。
劉表の弔問にきた魯粛と言う人物、弔問客がこんなずれたタイミングでくるのはおかしいではありませんか。荊州の視察と何か密談があってやってきたのに違いありません。
先日揚州刺史だった劉馥が亡くなったおり、その配下の者たちが暴動を起こしたため揚州は不安定な状態です。張遼、夏侯淵らが鎮圧に力を注いでおりますが、内政に詳しいもので新しい揚州刺史を派遣させましょう。この任は〇〇におまかせあれば適任です。」
(〇〇…パッと思いつかないけど揚州に縁のある、曹操軍団のホープ的な人。しかも荀彧とツーツーの人で)
曹操はその策を受け入れた。
9月、劉琦は都からの手紙を受け取り、朝敵にされたくなかったので春まで劉備の入城を拒否すると言い出した。劉備は慌てて近隣の県に助けを求めたが、すでに遅かった。劉備を受け入れる城はなく野宿連泊せざるを得なかった。じきに荊州には人々が戻ってきた。戻ってきた人間は罪に問わないと言うお触れが出たので皆大人しく自分たちの仕事に戻っていった。
揚州は土地勘のある〇〇が大活躍し、部下に当たる会稽太守・孫権にもバチバチ睨みを利かせていた。〇〇の交渉で孫権の子供を都に住まわせた(人質)。揚州は安定した。
……
……赤壁の戦いってしなくてよかったんじゃね?
劉表対策は考えていたけど劉備が迎えた若い参謀(諸葛孔明な)と言うのがなかなか粋な動きをしてくる…
荀彧様ちょっと燃えたかもしれない
荀彧的には荊州を抑えること、南下していくことは考えていたけど、劉表の病死でバタバタしておかしな展開になってしまったって言うのが本音なのかも。
九州の設置のくだりで、劉表に長江と漢水の間の地で頑張られちゃうと、天下統一が遠くなるのよねと発言している。劉表対策は考えていたけど、劉備、孫権がその隙間に入り込んじゃった。しかも劉備が迎えた若い参謀と言うのがなかなか粋な動きをしてくるな、計算外だったぜとちょっと燃えたかもしれない。
多分、いつものパターンだと大きい戦いの前って大概、荀彧は曹操を一旦止めるパターンが多い気がする。まず根回ししてからさあどうぞみたいな。
もしかしたら、荀彧の構想では主戦場は赤壁じゃなかったのかもしれないよな。自分たちが不得意な水上で戦うって言わない気がする…
だからこそ赤壁の項目は荀彧伝から抹消されているのか…