魏書 荀彧伝 01(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪
こんにちは!
三国志アナリストの橘花みいくです!
この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい
そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。
橘花美郁について
ファン歴は30年ほど
イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。
私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆
ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1
https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html
(旧サイトです)
潁上華電視台DAY2
魏書 荀彧荀攸賈詡列伝
荀彧字を文若といい潁川郡潁川郡の出身である…荀家と唐家はもともとツーツーだったのかも
荀彧、字を文若といい潁川郡潁川郡の出身である。
祖父は荀淑、字を季和といい郎陵県の令(長官、知事)を勤めて(後)漢の順帝、桓帝の頃の名士である。荀淑には息子が8人いて、兄弟皆出来が良かったので「八龍」と呼ばれていた。荀彧の父荀コン(糸へんに昆)は済南国の相(しょう)(長官、知事)を勤めたし、叔父の荀爽は司空(建設大臣?)に昇進している。
みいく謂えらく、その直前に司空を勤めていたのは唐衡なので(確かソース後漢書?)、荀家と唐家がもともとツーツーだったことを暗示していないか?
(唐家は荀彧の嫁の実家です…念の為)
荀淑と大将軍梁冀がやりあった時に、荀淑の肩を持ったのは唐衡である。
後々、大宦官だった唐家の権力に魅力を感じ、荀コンが自分の息子を結婚させたような記述があるけどちょっと違う気がする。少なくとも荀淑、唐衡には友好関係があり、清流派とか宦官とかの枠組みを超えた友情があったのではないだろうか。
荀爽は董卓暗殺を企て追っ手から逃げまわっていたので、半ホームレスというか表に出られない生活を強いられていたはず。本来八龍なんて呼ばれちゃうくらい優秀な人なのにも関わらず。
唐衡が自分の引退後、もしくは病気等の理由で、司空のポストが空くので荀爽を救済するチャンスに変えたのかもしれない。
そもそも唐衡はピンピンしてるけど荀爽の為に司空を降りた、とも考えられるかもしれない。その荀爽は何顒と行動をともにしていて、後年、二人の死後合わせて弔ったのは荀彧である。家族でもないのに一緒に埋葬するってどんだけ仲良しさんなんだろう…
その何顒は荀彧の幼い頃に会っている。
祖父は荀淑、字を季和といい郎陵県の令(長官、知事)を勤めて(後)漢の順帝、桓帝の頃の名士である。荀淑には息子が8人いて、兄弟皆出来が良かったので「八龍」と呼ばれていた。荀彧の父荀コン(糸へんに昆)は済南国の相(しょう)(長官、知事)を勤めたし、叔父の荀爽は司空(建設大臣?)に昇進している。
みいく謂えらく、その直前に司空を勤めていたのは唐衡なので(確かソース後漢書?)、荀家と唐家がもともとツーツーだったことを暗示していないか?
(唐家は荀彧の嫁の実家です…念の為)
荀淑と大将軍梁冀がやりあった時に、荀淑の肩を持ったのは唐衡である。
後々、大宦官だった唐家の権力に魅力を感じ、荀コンが自分の息子を結婚させたような記述があるけどちょっと違う気がする。少なくとも荀淑、唐衡には友好関係があり、清流派とか宦官とかの枠組みを超えた友情があったのではないだろうか。
荀爽は董卓暗殺を企て追っ手から逃げまわっていたので、半ホームレスというか表に出られない生活を強いられていたはず。本来八龍なんて呼ばれちゃうくらい優秀な人なのにも関わらず。
唐衡が自分の引退後、もしくは病気等の理由で、司空のポストが空くので荀爽を救済するチャンスに変えたのかもしれない。
そもそも唐衡はピンピンしてるけど荀爽の為に司空を降りた、とも考えられるかもしれない。その荀爽は何顒と行動をともにしていて、後年、二人の死後合わせて弔ったのは荀彧である。家族でもないのに一緒に埋葬するってどんだけ仲良しさんなんだろう…
その何顒は荀彧の幼い頃に会っている。
南陽の何顒が絶賛、「王佐の才」つまり帝王を補佐できる逸材だと。荀彧の引っ越し多い人生のはじまりw
荀彧が幼い頃、南陽の名士何顒はこの子はただ者ではないと思い、「王佐の才」つまり帝王を補佐できる逸材だと言った。
永漢元年(189年)、荀彧26歳の時、孝廉に推挙され守宮令(宮中の文具発注係?)に取り立てられた。
みいく謂えらく、この時代の元服(成人)て確か15歳くらいだったような。それを考えると26歳の孝廉て遅咲き感ある。新卒の中にポツンといる業界経験者みたいな感じか?親戚身内が粛正されたり目をつけられてる為、それでも中央に戻ってこれるのはありがたいことなのかも。
幼少期から後の20年間の記述がないのでこの時期荀彧は父親と一緒に行動してたと仮定するなら、済南国から洛陽への移動ということになる。
永漢元年(189年)、荀彧26歳の時、孝廉に推挙され守宮令(宮中の文具発注係?)に取り立てられた。
みいく謂えらく、この時代の元服(成人)て確か15歳くらいだったような。それを考えると26歳の孝廉て遅咲き感ある。新卒の中にポツンといる業界経験者みたいな感じか?親戚身内が粛正されたり目をつけられてる為、それでも中央に戻ってこれるのはありがたいことなのかも。
幼少期から後の20年間の記述がないのでこの時期荀彧は父親と一緒に行動してたと仮定するなら、済南国から洛陽への移動ということになる。
荀彧の父親は尚書僕射から済南国へ、いわば永田町から地方公務員へになるようなもの。
左遷ととるか、危険な洛陽から離れるためともとれる。
後年、荀彧が尚書令になったのも、父親の仕事を手伝ったりして、尚書台によく出入りしてしいごと内容も分かっていたからなのかも…
だから三公蹴っても尚書台にこだわっていたのかな
(または潁川。後漢書によると潁川太守の主簿をしてた時期があり、その時の潁川太守さんが荀彧を気に入り孝廉に推薦してくれたとある)
現在の済南市から洛陽市までに置き換えると約600km、車で高速使って6時間半の距離である。
父親の転勤先の大阪から関東に戻る感じか。さしずめ故郷は神奈川か、潁川郡だけにw
引っ越し多い人だなw
地方の役人になりたいと願い出てそのままバックれて帰郷する!
早くバックれたいが為、さももっともらしく亢父がいかに要所か、いにしえの蘇秦がどうのこうのと滔滔と語る荀彧様の演技力をお楽しみくださいw
董卓がやりたい放題しくさるのを見て、こんな所でヘイコラやってられるか!と思い
カモフラージュのため地方の役人になりたいと願い出る。うまいこと亢父(こうほ)県の令に任命されるがそのままバックれて帰郷する。
みいく謂えらく、そもそも亢父ってどこ?
華北東部にあり、洛陽から400〜500km離れた兗州のあたり。潁川と方向逆ですよ。
つい最近まで住んでいた済南国と方向的には一緒。春秋時代の魯や斉あたりの防衛の拠点的な所らしく、バックれたいが為さももっともらしく亢父がいかに要所か、いにしえの蘇秦がどうのこうのと滔滔と語る荀彧の姿が想像できてニヤニヤしてしまう。役者だなあ
私が荀彧の好きな所はこういうところ。名家でもあり優等生の仮面を悪用して結構ちゃっかり出し抜くところがサイコーw 根本は正義感の塊なんだけど。毒を持って毒を制すというか。
こういう人が曹操のダークな面を見抜けないはずはなく、わかってて割り切って付き合ってたんじゃないのかなあと。信じてたのに裏切られちゃった…!シクシク…て自分から命を断つようなタマじゃないんですけどね。
カモフラージュのため地方の役人になりたいと願い出る。うまいこと亢父(こうほ)県の令に任命されるがそのままバックれて帰郷する。
みいく謂えらく、そもそも亢父ってどこ?
華北東部にあり、洛陽から400〜500km離れた兗州のあたり。潁川と方向逆ですよ。
つい最近まで住んでいた済南国と方向的には一緒。春秋時代の魯や斉あたりの防衛の拠点的な所らしく、バックれたいが為さももっともらしく亢父がいかに要所か、いにしえの蘇秦がどうのこうのと滔滔と語る荀彧の姿が想像できてニヤニヤしてしまう。役者だなあ
私が荀彧の好きな所はこういうところ。名家でもあり優等生の仮面を悪用して結構ちゃっかり出し抜くところがサイコーw 根本は正義感の塊なんだけど。毒を持って毒を制すというか。
こういう人が曹操のダークな面を見抜けないはずはなく、わかってて割り切って付き合ってたんじゃないのかなあと。信じてたのに裏切られちゃった…!シクシク…て自分から命を断つようなタマじゃないんですけどね。
潁川は永住の地にあらず、
荀彧とその一族だけが韓馥を頼って冀州へ
20代の荀彧が自分の非力さに涙したりするときがあったんだろうか
故郷の潁川に帰り、郷里の長老たちを集めた。潁川は四方から攻め込みやすく天下に有事があるたびに戦場になる、永住の地ではないから移住しようと勧めたのだ。
潁川は地元密着の人が多かったので、地元に愛着がありすぎてなかなか踏ん切りがつかなかった。たまたま潁川郡の出身で冀州の牧(長官)・韓馥が騎馬隊を派遣して迎えに来てくれたが誰もついていこうとしなかった。荀彧とその一族だけが冀州に向かった。
潁川は地元密着の人が多かったので、地元に愛着がありすぎてなかなか踏ん切りがつかなかった。たまたま潁川郡の出身で冀州の牧(長官)・韓馥が騎馬隊を派遣して迎えに来てくれたが誰もついていこうとしなかった。荀彧とその一族だけが冀州に向かった。
みいく謂えらく、荀彧にとって潁川は小さい時に何年か住んでいただけで、あんまり愛着を感じていなかったのかも。むしろ多感な時期を過ごした済南国の方が離れがたかったのかもしれない。
サバサバと移住してしまった荀彧だけど、後々、故郷潁川郡潁陰県のあたりを許昌と改名し献帝を迎えここを都としている。自分たちは難を逃れたけど地元に残った人たちは悲惨だった。だから一緒に移住しようって言ったのに…という気持ちと強く勧めなかった後悔と。
ガレキと死屍累々の故郷を見て(しかも皆顔見知り)、どんな気持ちで街を復興してたのか。20代の荀彧が、自分の非力さに涙したりするときがあったんだろうか。