2019年2月10日日曜日

【みいく注】荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?家族を守るために…荀彧様のパパもすごかった~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆

【みいく注】荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?家族を守るために…荀彧様のパパもすごかった~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆











こんにちは!三国志ライター橘花みいくです!



この記事は、
●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1

https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html

(旧サイトです)


直近の活動はこちらご覧ください
潁上華電視台DAY2  




荀彧様のお父様、荀コン〔糸昆〕ってどんな人?素晴らしすぎて「八龍」と呼ばれていた☆尚書朱宇から済南国の相へ



赴任した済南国は首都洛陽から600キロも離れたところw
日本に例えたら東京から福岡に転勤するような感じ




魏書荀彧伝の冒頭で、荀彧様のおじいさまとお父様について触れられています

人となりは詳しくは書いてなくて荀コン兄弟らが素晴らしすぎて「八龍」と呼ばれていたこと、「済南の相」になったことだけさらりと描かれています。



…いつも思うんですが中国って土地がめちゃくちゃ広いし、さらっと言ってるけど結構な距離なんじゃあ…とおもったら案の定でしたw



赴任した済南国は首都洛陽から600キロも離れたところw

現代でも高速使って6時間半もかかるところを、当時は馬か馬車で行ったんでしょうね
日本に例えたら東京から福岡に転勤するような感じでしょうか
同じ中国だけどイントネーションも文化もだいぶ違ったと思います


私も関東から大阪に転勤してきましたけど、言葉のイントネーションだけでなく

ものを考える順序とか思想も全く違うなと感じることがありました


都会っ子の荀彧様が親の転勤とはいえ済南までいく?


そもそもなんで荀コンは600キロも離れたところに行くことになったか














魏書にはお父様の伝はないので、その前の年代の正史をたどると、

後漢書の竇何列伝(竇武と何進)のなかに当時の尚書台のメンバーが記述されています。
尚書令が陳蕃で、僕射が胡廣、その次に尚書朱宇が荀コンとなっています。





前後の文脈からすると延熹8年(165年)以降で霊帝が即位した建寧元年(168年)
荀コンは尚書朱宇と言う官職についていたようです。
(ここでも陳氏が出てくる。仲よすぎやろ)

荀彧様2~5歳の頃❤かわいい❤



お父さんの上司がなんか劉姓のおとなしそうな青年捕まえてきて皇帝にしちゃったよ…皇帝ってなんやねんって思ったことでしょうw




桓帝は跡継ぎがいなかったので、桓帝の皇后、大将軍竇武、太尉陳蕃が桓帝の親戚の子を連れてきて皇帝にまつりあげています(のちの霊帝)。



おそらく幼き日の荀彧様からしたら、

お父さんの上司がなんか劉姓のおとなしそうな青年捕まえてきて皇帝にしちゃったよ…
皇帝ってなんやねんって思ったことでしょうw

僕が学んでる古代の聖人、聖王の話なんて嘘じゃん!全然徳とかで選んでないじゃん!

なにこれ!いうこと聞くやつ座らしてるだけやないかい!
ってきっと思ったはずです。。。


話戻しますねw

そもそもなんで荀コンは600キロも離れたところに行くことになったか



済南の相?巻き添えくらって左遷?!それとも逃がされた?!中央から離れた済南国なら宦官たちの目も届かない












黄巾の乱ってめっちゃ災難だけど、それで救われた人もいる皮肉
難を逃れた清流派名士たち




桓帝の時代は宦官が強い力を持っていました。
ちょっと待ていと宦官潰しにいったのが、前述の竇武、蕃でした。




計画の途中で宦官にバレ、中核の二人はもちろんそれに関わった人たち、李庸とかも弾圧されます。

抗争は収まらず、宦官も徹底的にやり返そうとしたんでしょう。清流派名士を殺害したり政治の中枢から追い出し社会的に抹殺していきました(第二次党錮の禁)。




宦官たちの勢いは止まらず、その後15年近く清流派名士本人と一族を追いかけ回したのですが黄巾の乱が起こり、黄巾たちの方に亡命されたら困るので苛烈な弾圧を中止したようです。黄巾の乱って農民からしたらめっちゃ災難ですけど、それで救われた人たちもいるって皮肉ですね。


で、その頃でしょうか。

庸と荀彧様の祖父・荀淑は仲が良かったため、当然荀コンも宦官から見たら邪魔な存在だったに違いありません。ここで唐突に済南の相になるという、異動の事実だけが記述されています。李庸、陳蕃たちとも相当近くにいて荀家でも被害をこうむった身内がいて、殺されてもおかしくない立ち位置にいるのに…




ここんところを私は、


嫁のお父さん(唐衡)の力で逃してもらったのかなと考えています



こんなところで死んではならんと、中央から離れた済南を紹介してあげたんじゃないでしょうか。ちょっと都からは遠くなるけど、ここなら宦官たちの目も届かないだろうし、相(県知事クラス)なら尚書の時よりかは下がるけどそれほど給料も悪くない、地方でのんびりしておいでとか



もちろん荀家一族のネットワークはありますよ



唐衡⇄荀淑(➕荀彧)
の中に



宦官とか清流派を超えた関係性があって、
上っ面の官職でなく人物そのものを見破る、荀彧様の鋭い観察力はそこで養われたんでしょうねw




済南国ではいくらか質素になったけど穏やかで学問に集中できる環境はあったのかな
亡き父がなしえなかった『仕事』を継ぎたくて尚書台へ






済南に行ってからは荀彧様は田舎でのびのび勉強に励まれたんじゃないでしょうか。



お父様が中央で尚書してた時に比べたら

いくらか質素になったけど穏やかで学問に集中できる環境はあったのかなと思います。




食べ物と学問にはしっかりお金をかけるけど

見栄のためにはお金を使わない




とか。魏志荀彧伝のなかで、

『身分上の定めに縛られるのを嫌がり、高官なのに敷物を重ねて座ることもなかった』という記述があるのですが、きっとこれ済南時代のお金に苦労した時代があるからこその自然な振る舞いなんでしょうね。



永漢元年(189年)、荀彧様23歳の時、孝廉に推挙され再び中央に戻ります

(その後すぐバックレるんだけども…)
その頃までは済南ライフを楽しんでいたと思われます



今度は荀彧様がパパになって

亡き父がなしえなかった『仕事』を継ぎたくて、尚書台を希望したんでしょうか
かつての父の仕事場を見て、廃れてしまった古代の礼儀とか「俺がやらなくては!」と何かに火がついたとか❤️



後年、尚書令(長官)を務めた息子に、

「昔の俺を越えやがって…フッ(^0^)」と言う
天国のお父様の声が聞こえたとか聞こえなかったとか…w