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2020年8月16日日曜日

魏書 荀彧伝 13(現代語訳)~曹操様に九錫を受けていただきましょう、董昭らのたくらみ|橘花美郁三国志☆

 



魏書 荀彧伝 13(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪




こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。


この記事は、

●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



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三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう




魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き
「曹操様の爵位を国公に進め、九錫(きゅうしゃく)を受けていただきましょう」董昭らのたくらみ




建安17年(212年)、荀彧49歳の時(当時は数え年なので彼ら的には50歳)、
董昭らは密かに荀彧にこんな相談を持ちかけた。
「曹操様の今までの功績を明らかにすべく、爵位を国公に進め、九錫(きゅうしゃく)を受けていただきましょう」

※九錫…功績の大きい重臣に対し、皇帝が特別に支給するプレゼントのこと。実用品が多い。皇帝御用達のものとほぼほぼ同じグレードの高級品なので、普通の重臣は持つことは許されない。衣類や印綬の紐とか皇帝しか使ったらあかん色がある。皇帝仕様の品物なので、もっと昔の時代、後を託す意味合いで授与されたことがある。そこからなんとなくもらったら次期皇帝?みたいなニュアンスが含まれるようになってきた。
具体的には、車馬、衣服、楽器、朱塗り門、昇降用の階段、儀仗兵、斧とまさかり、弓矢、お神酒の9つ。



荀彧はこう答えた。
「曹公が義兵を起こしたのは、朝廷を立て直し国家を安定させるため。天子に忠誠を尽くし慎み深くして真心を持ってお使えしてきたのである。君子たるもの人を愛するに徳をもってする、そんなことはすべきでない。」


曹操はこれを聞き平常心ではいられなくなった。



みいく謂えらく、ここめちゃ重要なのになんか文章変くない?
君子どこから出てきた?なんで人を愛する話になったの?

平常心でいられなくなるとは、必ずしも怒りなのか?
自分を理解してくれて胸熱!心が震えたのか?
寂しくてざわついたのか?





「曹公が義兵を起こしたのは、朝廷を立て直し国家を安定させるため。」は良いとして。
「天子に忠誠を尽くし慎み深くして真心を持ってお使えしてきたのである。」


原文は「守退譲之実(退譲の実を守る)」、皇帝(上司)相手に曹操が謙虚に振る舞うのは当たり前っちゃ当たり前(退譲)。実を守るってどう言う意味なんだろう。果実の実、みのる事以外には誠意、偽りでない事など。
ここに「実」って単語を被せている事で、荀彧が曹操をかばっているようにも見える。


董昭よ、曹公がいずれ漢王朝乗っ取るつもりだろうから早く布石打ちましょうと言いたいんだろうけど、曹公はそんな気ないぜ。この20年一緒に仕事してきたがそんなワルじゃないぜ。乗っ取る気なら帝を許に呼び寄せるかい。


曹操が九錫を欲しいと言ったわけじゃなく、曹操が上に上がってくれればわしらも順番に繰り上がって出世するわいと言う周りの人間の念がふつふつと見えますけど。
九錫が欲しいとかバブリーなのを好むなら、なんでプライベートあんな質素やねん!自分のお葬式も簡単でええ!と言うような人が九錫なんぞ欲しがるかい!



曹操は平常心ではいられなくなった
魏公を反対されて曹操がイラついたから?

いやもっと胸アツ展開なのかもしれない






「君子愛人以徳(君子人を愛するに徳をもってす)」
この時代、「以徳(徳をもってす)」が流行ったんだろうか。


論語の中に、
「直(ちょく)をもって怨みに報い、徳をもって徳に報いよ」という言葉がある。


(意味)ある人が孔子に尋ねた。「恨みのあるやつにもよくしてあげるのはどうですか?」
孔子は答えた。「それならよくしてくれた人にはどう返すの?恨みのあるやつは正しさで返し、よくしてくれた人にはよくして返せばいいのだ」と。


荀彧が言いたかったのは、他にやりようがなかったとはいえ洛陽から強引に遷都してしまった。でもその後も献帝は自分らを信頼しよくしてくれている。だからこそ天涯孤独な献帝に最大限楽に暮らしてもらおう、そのために俺らはやっているという事。


清流派の士大夫の皆さんからしたら、論語だのなんだのの古典は、掛け算九九を暗唱するようなものでスラスラいえないと結構恥ずかしいレベルの教養だったに違いない。(現代人は毎回ネットで調べますがw)この韻を踏んでるような感じから、この論語の文章を想定しつつ話ししてたのかなーと。


だから臣下の分際で、しかもお前みたいな新入りが、献帝の心をざわつかせるようなクソみたいな事いうんじゃねえよと大古株の荀彧パイセンはキレたわけです。
(荀彧からみたら全員新入り)



それを聞いて、曹操は平常心ではいられなくなった。
(原文は「心不能平」心平らかなること能わず)


「心平かなること能わず」を「魏公を反対されて曹操がイラついた、荀彧に対し嫌気がさした」と訳す向きもあるけど、荀彧は常々曹操に「周の文王みたいになってね」と半ば暗示かけてたので、魏公、魏王になることは荀彧の願いでもあったんじゃないのかなあ。


しかもそんなんで心平かなること能わずだったら、とっくに荀彧は曹操に消されてると思うけどw 兗州攻略の時も言ったじゃん!!徐州狙うより先に本拠地の兗州どうにかしようって。


みいく謂えらく、曹操は別の意味で「心平かなること能わず」になったんだと思う。
感動した、胸熱になったとか。


正直、表向きは皆曹操にへいこらしてるけど、裏では何言ってるかわからんなあ。曹操の部下以外にも、旧貴族の面々とか利害関係の異なる人間が朝廷にはいっぱいいる。
怖いリーダーであればきっと影でなんか言われてる。曹操がそれに気づかないわけはない。
どうせ漢王朝乗っとるんだろ、と思われながら激務をこなしている曹操かわいそ。


そこを荀彧が、曹公はそんなつもりじゃないぜって言ったから、わかってくれるのはこいつだけだぜってなってるのかも。やんちゃしたのは子供の時の話しで、今は更正したんだ。
いつまでも阿瞞(嘘つきそうちゃん)じゃねーよって曹操は言いたかったんだろうな。
ごんぎつねみたい)


あるいは九錫を受けるのを反対され、寂しくなったのか?
これも「心平かなること能わず」と言えるかも。




2020年8月15日土曜日

魏書 荀彧伝 14(現代語訳)~「彧疾みて寿春に留まる」疾は急な病気、なんで「病」じゃないんだろう?|橘花美郁三国志☆


魏書 荀彧伝 14(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪




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魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き 

「彧疾留寿春(彧疾みて寿春に留まる)」

疾には急な病気、病気、早い、という意味がある。

なんで「病」じゃないんだろう?





孫権の征伐が行われた。曹操は軍の慰問のため荀彧を借りたい、譙にきて欲しいと上奏した。
荀彧はとどまり侍中・光禄大夫(こうろくだいふ)(近衛大臣)としての節(旗、旅中いう事聞かない奴は斬ってよしの権限)を持ち、曹操の軍事に参画した。
曹操の軍隊は濡須(じゅしゅ)についた頃、荀彧は急な病気になり寿春に残った。
先のことを憂いもって薨じた。
享年五十歳。敬公と諡(おくりな)された。
明くる年、曹操は魏公となった。



みいく謂えらく、許都から戦地の濡須に向かうのに、譙を経由する意味?
譙に何があるんだろう。沛国譙郡…今回の配備で何が関係するんだろう、曹操の故郷である事以外に。
尚書令の荀彧がいつの間に光禄大夫になったんだ?曹操のところに行くので、献帝も自分の味方でいて欲しいから光禄大夫にして、旅中いう事聞かない奴いたら朕の名前だしていいから!斬っていいからね!の非常時のみのスペシャル権限(節)まで持たせて行かせたのか…どっちからも愛されまくりじゃないか!
というかこの三角関係が終始荀彧を苦しめる足枷だった気もするんだけど。


許都を出発した時は荀彧は元気だったと思う。旅の途中で急な病気にかかったと思われる。
原文は「彧疾留寿春(彧疾みて寿春に留まる)」疾には急な病気、病気、早い、という意味がある。疾風とか。


なんで「病」じゃないんだろう?と思うに病と疾は意味が少し違うらしい。成り立ちでいうと
「病」は文字通りガチの病気、起き上がれない、寝たきり状態
「疾」は軽い病気
らしい。軽い病気なのになんで死んじゃうの!!(涙)



ちょうどこの記事を書いている2020年8月、コロナウイルスの大流行で世界中で2000万人の人がかかり、80万人が亡くなっている…。2019年の年末くらいから流行りだし、世界の大都市は封鎖され(ロックダウン)、飛沫感染を防ぐため外出はしないように、仕事の仕方や経済の形まで大きく変えてしまった。
ワクチンはないし、そもそも正体もよくわからない新種の風邪…


三国志演義の一番はじめの頃、黄巾の乱の頃も疫病が流行ってたけど、これが現代で言うところの「第2波」って奴じゃないのか。日本では一旦収束しかけたに見えたコロナウイルスの患者がまた増え始めてる。


黄巾の乱の起きた場所って潁川(許都)、陳留、荊州、青州などざっくり北の方。じきに疫病の話は出てこなくなる。(しばらくして赤壁の頃またわけわからん疫病が流行ったな)当時の都・洛陽からも近いし医療が整っていたほうなんじゃないかと。洛陽方面から離れるにつれ、十分な医療が受けられずに放置されてる可能性はあるし、亜種が生まれた可能性もある。




荀彧も潁川に帰り先祖代々のお墓(廟)に祀られるはず。なのになぜ寿春に埋葬されているんだろう?黄巾の乱の頃も疫病が流行ってたけど??









そこに知らずに踏み込んでしまった。留守番専門の荀彧が珍しくロングロングジャーニー。
きっと疲れもたまってきたり、旅中なのでご飯が冷めていて食べなかったり、大好きなお香は持ってくるの忘れたしサイアク…面会おわたらさっさとウチに帰りたい…そんな事を思っていた矢先。
なんか身体がだるい、熱っぽいな…


最初軽い風邪ですよとタカをくくっていたけど、新型ウイルスで今までの治療法じゃ治らないぞ!と気づきいた。しかも名医・華佗は先日曹操の不興を買い処刑されちゃったんだっけ…ヤバイ、薬がない!治らないのか!と
「病状に関して憂いてる」間に急死してしまった。


肝心なところを削ったり荀彧に対してこじらせ気味な陳寿が、荀彧の急死を「薨じた」と表現している。(原文「以憂薨」)これは本来皇族やガチ貴人に対して使用する言葉。それを荀彧に使っているところに、本来のリスペクトと文中の素直に認めたくない反発心が透けて見えるよう。


読み方によっては、荀彧は魏公反対から曹操と不仲になり、人生詰んだと悲観して亡くなったようにも読めるけど、原文から文字をひろうとそうでもないんじゃないと言える。


生前、荀彧は曹操に「周の文王」みたいになってね!そのために補佐するから!と言っている。実際、曹操は「魏王」にはなったけど「魏帝」にはならなかった。
そこに他の人間が入り込めない二人の約束があると思うんだけどなあ。



正史には触れられていないけど、荀彧のお墓は亡くなった土地、寿春城の場外にあるという。
なんで寿春?大概、遠征中に亡くなった時は、遺体は故郷とか本拠地に運ばれてると思うんだけど。荀彧の息子たち、兄弟、親戚縁者、みな都で活躍してる人物ばかりなので、経済的にとか立場的にか連れて帰ってこれない訳が無い。



荀彧は生前、親戚の荀爽と仲の良かった何顒の遺体を潁川まで連れて帰っている。
「西に引き取りに行った」という記述があるので潁川から見て西、洛陽あたりの獄(収容所?)から連れて帰ってきちんとお弔いしたんだろう。
曹操も洛陽で亡くなり、死後鄴城に帰還している。

荀彧も潁川に帰り先祖代々のお墓(廟)に祀られるはずである。



なのになぜ寿春に埋葬されているんだろう?
そこに埋葬しないといけない理由があったんだろうか?
荀彧的には絡みのない土地なのに…


仮説としてタイムリーに想起されるのが、コロナウイルスである。

昭和を代表する国民的なコメディアンの方も、コロナにかかりあっという間に亡くなってしまった。亡くなった後、遺族はゆっくり別れを惜しむこともできなかっと聞いている。
コロナウイルスが指定伝染病であり、正体不明の病気なので亡くなった後も近づいてはいけないというのだ。

荀彧が旅中にかかった病気も特効薬のない流行病だったため、動かすことができず潁川まで連れて帰れなかったんじゃないだろうか。現に潁川には祖父・荀淑の墓や八龍塚(荀氏の八龍=荀淑の八人の息子たちの墓。荀彧の父親も含む)があり、現代まで残っている。


訳の分からない流行病にかかってしまって、やりたいことの途中で亡くなったのは悲しいけど
それを曹操との不仲とか確執とかに拡大解釈するのはちと解せませんな、
というのがみいくの考え方です。




魏書 荀彧伝 12(現代語訳)~赤壁の戦いしなくても? 劉備を江陵に入城させるな!劉表の病死|橘花美郁三国志☆



魏書 荀彧伝 12(現代語訳)~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪





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●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
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そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



ディスコグラフィ-みいく-|潁上華電視台DAY1

https://miikutpz.sakura.ne.jp/site/descography-miiku.html

(旧サイトです)


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潁上華電視台DAY2  



三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう




魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き
荊州の劉表を討伐!この後有名な赤壁の戦いに繋がっていくのに荀彧の献策がすっぽり抜けて存在しないのはなぜ?





曹操は荊州の劉表を討伐しようと考えていた。荀彧に尋ねた。「何かいい策はないか」
「今夏華(中原)は平定されおり、南方の劉表はヤバイなと思っていることでしょう。
陽動作戦です。苑、葉方面に一隊を出撃させ、それと別に軽装の兵士たちを間道(抜け道)沿いに進行させます。相手の不意をつくことです」
曹操はその策を取り入れた。たまたま劉表が病死した。曹操は荀彧の策どおり苑、葉まで向かった。劉表の息子・劉琮が応対し荊州は降伏した。(戦闘せず城を明け渡した)



みいく謂えらく、この後有名な赤壁の戦いに繋がっていくのに、ここら辺の荀彧の献策がすっぽり抜けて存在しないのには悪意を感じる。
官渡の戦いであんなページ使ったのに、小規模の小競り合いでも相手の心理まで深読みして作戦練る荀彧が赤壁の戦いの時に何も意見を求められてないはずはなく…意図的に消したわね、陳寿。あんたは元々蜀の人間かもしれないがちゃんと後世に残すべきことは残しとけよと言いたい。
それぐらい、丸ごと秘匿してしまうほどに的確な献策を荀彧はしていたとも読み取れるけどね。


劉琮はあっさり降伏している。あっさりというか、そうさせた。前振りで、
許都に遷都してから劉表さん年貢一回も納めてないっすスよね〜俺らをナメてんのか、それとも帝のことナメてる感じっスか?とコワイ文章を送りつけておいたのでそれが効いたと思う。
降伏したら滞納した年貢は無しにしてあげるし、帝にもイイ感じで報告しておくから♪とでも言ったんだろうか…


赤壁の戦いってしなくてよかったんじゃね?
劉備を江陵に入城させるな!劉表の病死でバタバタしておかしな展開になってしまった





以下、【消された赤壁のページがあったつもり】で書いていきます。


曹操は荊州の州都・襄陽城に入場した。都にいる荀彧に手紙を送った。
「劉表の客将だった劉備が荊州の人間たちを扇動して逃げたようだ、官吏や農民ばかり10万人以上も減ってはかなわん。城下町が空っぽだ。即刻追いかける」


荀彧はこう返答した。

「追いかけたところで無駄でしょう。皆劉備の話を信じ込み、また自分ら庶民の声を代弁してくれると思い込んでいますから引き離すのは容易ではありません。
劉備の行き先は、おそらく江陵でしょう。備蓄もあるし交通の要所です。親戚の劉琦がいるのでそこに避難し時期を待つつもりでしょう。


しかも劉備には義弟の関羽、張飛がおり、まともにやり合うのは危険です。まずは劉備が江陵につくまえに劉琦に使いを送り、劉表が年貢を怠ったこと、劉琮がそれをリカバリーするために我らの指示に従うことになったと伝えるべきです。劉琦にもリカバリーに協力するように、劉備に加担しないように説得することです。劉備が不用意に人々を怖がらせ、嘘の情報で朝廷の権威を貶めたことを指摘し、絶対に江陵に入城させるなと釘をさすことです。
劉琦もまだ若いし政治的な経験は乏しい。好んで戦闘仕掛けてくるとは思い難い。まして朝敵なんて言われたら慌てて指示に従うはずです。


一族の年長者の劉備に言われ、そうかなーと思って従っているだけですから。
親戚同士なので助けたいと思うはずですから、長いこと繋いでおけなくてもこの冬の間こちらにつけていくことができれば良いでしょう。(8月に劉表病死、9月に劉琮降伏、この頃は陰暦なので10月はもう冬、だいぶ寒い。地球単位で見ても寒冷期に当たる)


江陵に入城できないと知れば飢えや冬の寒さに耐えきれず、飛び出した官吏や農民たちも戻ってくることでしょう。さしもの豪傑たちも空腹で野宿連泊では力が出しきれますまい。
その上で奇計を持って当たれば、劉備たち義兄弟は捉えることができましょう。


それより東呉の人間が、劉備と接触をもとうとしているようです。
劉表の弔問にきた魯粛と言う人物、弔問客がこんなずれたタイミングでくるのはおかしいではありませんか。荊州の視察と何か密談があってやってきたのに違いありません。


先日揚州刺史だった劉馥が亡くなったおり、その配下の者たちが暴動を起こしたため揚州は不安定な状態です。張遼、夏侯淵らが鎮圧に力を注いでおりますが、内政に詳しいもので新しい揚州刺史を派遣させましょう。この任は〇〇におまかせあれば適任です。」
(〇〇…パッと思いつかないけど揚州に縁のある、曹操軍団のホープ的な人。しかも荀彧とツーツーの人で)


曹操はその策を受け入れた。


9月、劉琦は都からの手紙を受け取り、朝敵にされたくなかったので春まで劉備の入城を拒否すると言い出した。劉備は慌てて近隣の県に助けを求めたが、すでに遅かった。劉備を受け入れる城はなく野宿連泊せざるを得なかった。じきに荊州には人々が戻ってきた。戻ってきた人間は罪に問わないと言うお触れが出たので皆大人しく自分たちの仕事に戻っていった。


揚州は土地勘のある〇〇が大活躍し、部下に当たる会稽太守・孫権にもバチバチ睨みを利かせていた。〇〇の交渉で孫権の子供を都に住まわせた(人質)。揚州は安定した。



……

……赤壁の戦いってしなくてよかったんじゃね?



劉表対策は考えていたけど劉備が迎えた若い参謀(諸葛孔明な)と言うのがなかなか粋な動きをしてくる…
荀彧様ちょっと燃えたかもしれない





荀彧的には荊州を抑えること、南下していくことは考えていたけど、劉表の病死でバタバタしておかしな展開になってしまったって言うのが本音なのかも。
九州の設置のくだりで、劉表に長江と漢水の間の地で頑張られちゃうと、天下統一が遠くなるのよねと発言している。劉表対策は考えていたけど、劉備、孫権がその隙間に入り込んじゃった。しかも劉備が迎えた若い参謀と言うのがなかなか粋な動きをしてくるな、計算外だったぜとちょっと燃えたかもしれない。


多分、いつものパターンだと大きい戦いの前って大概、荀彧は曹操を一旦止めるパターンが多い気がする。まず根回ししてからさあどうぞみたいな。
もしかしたら、荀彧の構想では主戦場は赤壁じゃなかったのかもしれないよな。自分たちが不得意な水上で戦うって言わない気がする…


だからこそ赤壁の項目は荀彧伝から抹消されているのか…





【わかりみ】荀彧ってざっくり言うとどんな人?何した人なの?一人の男の決意と熱意の賜物~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪|橘花美郁三国志☆

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