2021年6月27日日曜日

魏書 荀彧伝 15(現代語訳)曹操は荀彧にからの容器を送る。荀彧は天下の人々の手本だった|橘花美郁三国志☆


魏書 荀彧伝 15(現代語訳)
~映画、漫画、アニメで基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたいときは正史がおすすめ♪




こんにちは!三国志アナリストの橘花みいく(たちばなみいく)です。


この記事は、

●映画、アニメ、漫画で基本は押さえた!もっと知識を深めたい、知りたい
●原典読みたいけど漢文の知識ゼロでもだいじょうぶかな 
●日本語でも難しいのはイヤ、空き時間にサクッと読めるライトなやつが読みたい

そんな方におすすめです。
そんなエピソードあったんや~そういう解釈もあるんや~と楽しんでもらえたら幸いです。


橘花美郁について

ファン歴は30年ほど

イラスト投稿や同人活動、三国志関連サイト、自主アニメも作っています。荀彧伝現代語訳のサイトも運営しています。

私が「みいく流解釈」でわかりやすく解説します☆



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三国志の人物の中でも一二を争うくらい謎が多い、我が最愛の荀彧様についてまとめました。曹操のお気に入りで常VIP待遇なのになぜ不仲説?
正史の現代語訳と私みいくの注釈つきで、演義では描かれない荀彧様の横顔にうっとりしながら素顔にしっぽり密着したいと思います。続けて読むと、きっとあなたも荀彧様の虜に…❤︎
では紐解いていきましょう




魏書 荀彧荀攸賈詡列伝  続き

曹操は荀彧に食物を送った。

荀彧が開けてみるとからの容器だった。



裴松之の注に曰く、
孫盛の「魏氏春秋」によると、
曹操は荀彧に食物を送った。荀彧が開けてみるとからの容器だった。
そこで荀彧は自殺した。のち咸煕(かんき)2年(265年)、荀彧に大尉の位が追贈された。





みいく謂えらく、
まず孫盛って誰やねん?! 姓から察するに孫呉の人間じゃないだろうな。ナメてさらすなよ、いっぺんしばかな分からんか、と凄みかけたけどどうやら魏にゆかりのある人みたい。
この空の入れ物をわざと送るエピソードって、知ってる人が多いものの謎すぎるんですけど。
お見舞いの食べ物が入っていて食べて空になった、もしくは薬が入っていて飲んで空になったでええやろがい。



贈り物が空っぽでしたって曹操に言いづらくて、悶々として自殺したとこじつけたいらしいんだけど、だっさ。入ってないっす!って突っ返すのが荀彧なのだw まじで曹操と荀彧の関係性を知らん門外漢か知ったかしてるとしか言いようがない。荀彧は生前からして、ばちばち直言かましてるのに何を今更しおらしいねん!


おい妬むなよ。しかも軽くウィキで見ただけだけど、孫盛氏、三国志の時代のいろんな異聞を集めてくれたのはいいけど元ネタ春秋左氏伝とか結構自分でミックスして盛っちゃってるらしいな。



荀彧は尚書令であったため、いつも文書で意見を具申していたが、臨終の際に全て焼き捨てさせた



裴松之の注に曰く、
「荀彧別伝」によると、荀彧は尚書令であったため、いつも文書で意見を具申していたが、臨終の際に全て焼き捨てさせた。そのため荀彧のたてた奇策や密謀の全てを知ることができなくなった。


当時は草創期で、多くの制度が復活したが、荀彧はこんな意見をよく具申していた。
「昔、舜は基準しない者たちを征伐するのと同時に、禹(う)、稷(しょく)、契(せつ)など有能な人物を任命して文治を行わせました。また漢の高祖は初期は戦闘に明け暮れていましたが、同時に文治で能力のあるものを登用し、叔孫通(しゅくそんとう)は戦いの間でも儀礼の訓練をしました。
さらに後漢の光武帝は矛を横に置き学芸に講じ、馬を休めて道を論じました。『君子は終食の間も仁に違わず』という心から出たことです。


いま将軍は外に対して武功を挙げ、内に対しては学芸を盛んにしておられます。そのため国は安定を保っています。当代において制度を確立し、後世に名を残すとはなんと立派なことではありませんか。武力の行使を終えてから内政を整え学問を広めていくのは正しい手順ではありません。どうか天下の有能な人物や学者を集めて、学問を確立し、強化をすすめられますように」


荀彧が折を見て曹操に具申した意見はこういうものが多かった。曹操は常に喜んで受け入れた。

荀彧の名は天下に轟き、手本としない者はないほどだった。
司馬懿は「この百数十年間、荀彧殿におよぶ賢才は存在しない」と言っている。




荀彧の名は天下に轟き手本としない者はないほど、
そんな荀彧に推挙された人物は大物だったし
荀彧殿の推薦だからとなおさら襟を正したんだろう





裴松之の注に曰く、
「荀彧別伝」によると荀彧が今までに推挙した人物は、のちに優れた大物と呼ばれる人物ばかりだった。
同郷人では荀攸、鍾繇、陳羣などがおり、広く海内では司馬懿がおり、郗慮(ちりょ)、華歆(かきん)、王朗、荀悦、杜襲、辛毗(しんぴ)、趙儼(ちょうげん)などは全て荀彧の招聘によるものである。大臣の位に登った者は十数人に達した。また荀彧の人物評価は角一的な者でなく、世俗に反する者でも優れた人物として推挙し、各々名を挙げた。


荀攸ものちに魏の尚書令になり賢才を推挙した。曹操は「二人の荀尚書令の人物評価は長い目で見て信頼が置ける。俺は生涯忘れまいぞ」と言っている。



みいく謂えらく、「全てを知ることができなくなった」んじゃなくて、自分の意思で無くしてしまいたかったんだと思う。
旧サイトでも書いたけど、以前より、荀彧様ってお釈迦様のようだとおもってるんだけど。

仏教の言葉に
「川を渡り終えたら筏を捨てよ」という言葉があるんだけどそれかなあと。
現代の言い方にしたら、戦中、戦後の何にもないところからやり直し、献帝を擁し、文学を盛んにし、もう戦後じゃないよねというところまで持ってこれたから、あとは俺の名などいちいち出さんでいいと言いたかったんだろうか。


元々王子なのにそれを捨てて修行に行ってしまったり…
仏教の中国伝来は紀元2、3世紀ごろと言われているので、ちょうど三国志お時代の頃と重なる。当時はまだごく一部の知識人層にのみ知られたいたというから、まさに荀彧たちは知り得た層と言える。


それにしても曹操はほんまに愛されてるな。
当代において制度を確立すること、学問に力を入れることで後世に名を残すとはなんと立派なことではありませんか、と言っておいて

結果的に自分の手柄までも曹操の方につけてあげてる。



国が安定したのだから自分の名前なんて出さんでいい、むしろ曹操が褒められといたらいいやん。


だからそれができるのが、ガチの『王佐の才』であり、荀彧なんです!



※空の容器の話とこの天下にリスペクトされまくりの話、
かみ合わな過ぎて妙だなといつも思っています。。。。